現在、八幡神社境内にあるのは、昭和二八年(一九五三)に建立された顕彰碑である。
表
古橋翁顕彰碑 農林大臣 保利 茂謹書 |
裏(碑文)
中津川市街用水及其郊外一帯の耕地を灌漑する主要用水三川あり その最大なるものを上井水(第一用水路)と称す これ今を去ること百九十三年前当町の人古橋源治郎翁の開鑿するところのものなり 古橋源次郎翁は字義元 古橋氏五代の祖なり性工役を好み土木建築の技に長ず 中津川の河水を導き中村 実戸 中津川諸部落の使用灌漑に充て 併せて 上金原を開拓せんとして官の許可を請う 時の代官山村氏これを許し且つ激励するところあり 依って工を起す 伝うるところによれば暗夜炬火を点じて この地に相対する駒場大平山よりその高低を観測して水行を測定せりと 寛文壬寅二年(一六六二)春三月終に竣功すその幹線は中津川字尾外岩より中津川の流水を堰入し予定の諸部落を霑して蜿蜒実に三三六七間(五八八一m) 水路幅員六尺(一・八m・一間)常に二二個の水量を通じ灌漑水田面積七六町歩(約七六ha) 下流なる中井水 下井水と共に中津川市街の重要なる用水路として市民の恩恵を蒙ること多大なり 次で中村八幡神社の拝殿一宇を建立十一月落成し山村氏よりこれを奉納す 代官恵下及び木曽河畔大角豆畑の地を贈りて その功を賞す 翌寛文三年再び工を起し中津川宿新町より北野を迂廻して上金を通ずる東山道を改修して茶屋坂を開設し その道程を短縮す 功に依り廃道敷地を賜り再び賞せらる 爾来星霜三〇〇年に垂とす 流水は淙々として とこしえに中津川三千戸を霑す 今 当時を追憶しその偉業を思い碑を建て石に刻して以て翁の事蹟を不朽に伝えんとす
昭和二八年一〇月一日
この顕彰碑にて、この第一用水の意義がよくわかるが、若干の考察をすると
「時の代官山村氏」とあるのは、尾州徳川家の木曽代官山村氏の意で、中津川宿村の代官ではない。山村氏は中津川宿村にとっては、知行主(領主)・地頭であり、山村氏の代官が中津川にいたのである。寛文当時でいえば堀尾作左衛門、桑原勘兵衛、それに市岡長右衛門と村わけ代官の時代であった。このことは恵那神社の棟札に残る知行主山村氏については、
願主 木曽福嶋館主大江姓
山村良及(九代、宝永七年-延享三年)
というように、表のはじめに書かれ、裏へまわって
中津川支配 堀尾作左衛門業知
庄屋 肥田九郎兵衛通泰
となっているものが大部分で、知行主山村氏、その中津川代官として支配堀尾作左衛門であって、知行主の山村氏が願主となって、恵那神社の役行者社や熊野社を建立しているわけである。
次に碑文のなかに「……これを許し 且つ激励するところあり……」の文があるが、これは上金原を開拓したいと考えた知行主山村氏は、そのために行う主要井堰工事を古橋源治(次)郎に下命した時に激励をしたということであろう。また「……これを許し……」については、
江戸時代後半になると、開発主体者がはっきり村役人の申請であるが、阿木の槇平の開発の場合は、文政元年(一八一八)に阿木村の役人たちが連署して、阿木川の上流、風神神社より、更に奥の標高千米に近い槇平の開墾を岩村表に申出、一〇年以内に田畑一〇町歩を開くことを計画しこれを許され、岩村表より年賦金五〇両を拝借してはじめたが、何しろ高冷地、一〇年たっても、半分の五町程しか開かれず、大金を使用しながら、どうしたかと岩村表より、きつく叱られ、例の橋本祐三郎死罪の一件と結びついている。第一用水工事は知行主の開発事業で、その土木設計と施工を源治郎が分担したものであると考えられるから、土木担当を許されの意であろう。