手金野上用水

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現在は、本州製紙附近(手賀野斧戸四六五)梶島より引水している用水路である。用水路幅約一間(一・八m)、長さ二六六五間(四八二四m)の用水である。吉田家文書(吉田氏代々記)によると、
 
 慶長十九寅年(一六一四)ヨリ原新開発ス
 元和年中 切起成ル
 大坂軍乱(大坂夏の陣)ニ付逃来ル者ヲ入
 元和七酉年新田畑成就ス
 
 とあって、文禄四年(一五九五)に出雲国より中津川へ来た吉田助左衛門(山村氏の代官となる)が中津川より手金野へ居を移す前に、代官として田畑開発につとめたわけである。この開発と上用水は一体のもので、この頃に開鑿(かいさく)されたものであり「吉田用水」と別称されている。この時の開発は約一四町歩(約一四ha)である。東原、上原、小向井、西沼、狐塚、大道上などの小字を灌漑している(その後増加九二町一反歩となる)。