大水害と村方困窮

622 ~ 622 / 922ページ
 文化五年(一八〇八)辰年
 辰七月廿五日大風雨 同日昼八ツ時 満水ニテ廿年余之川除委(ことごと)ク流失致スニ付 中津川恵下沢ぬけ出 宗泉寺より実戸迠出淀川迠押出 大坂屋七兵衛(勝野七兵衛)殿へも砂六七尺入 実戸ニテ五間(軒) 中津川と淀川下町両所ニテ八間(軒)流失致し候 井水通りも委ク流失にて 当村新井(上用水)も不残落候……略(吉田氏三代記)
 
 このような被害を与えた大水害について、福島より見(検)分奉行として、勘定所川口茂右衛門、地方役人今井蔵太、徒士の三宅又蔵、足軽野口唯助、川北鈴右衛門がやってきた。そこで新井川除(上用水の修理)村方積りでは、井水通りだけで、人足三七〇〇人以上必要と申上たところ、川北鈴右衛門が奉行となって、九月四日より一一月二九日までに一応できあがったが、通水前で、人足三一〇〇人程かかってしまったので、一一月一三日に、福島の知行主山村氏に御目見の上、救引きを願いにいった。それは定納二割引と米二〇〇俵を五か年拝借し、六年~二〇年賦で返上するという内容であった。
 これは聞き入れてもらえず、中津川へ帰って代官高坂等作と相談せよということになり、結局、定納高の五厘引、米一二〇俵拝借、一〇か年賦となった。
 この水害による田畑被害と用水路の復旧費と労役で、無尽や諸勘定も立てることができず「徳政の様子」といって、諸借時払など一切ことわりになってしまって、この状況が春分まで続いたという。
 井堰が大きく破壊されてしまった場合に、村で負担しきれない程の出費が必要となる。その一つの例としてあげた。