尤 新規ハ戸斗ニ 柱ハ上下とも 古来之侭ニ而候
上用水の水門の戸のとりかえをした。
○慶応四(明治元年)戊辰三月(一八六八)新井筋東原角堰替之次第
長 五拾九間 井蓋木ハ巳十月(明治二年)出来仕候
内
上手 十一間 源概 三間堰
中 廿八間 同 九尺堰
下 廿間 六尺堰
[上中]人足五百六十四人 但七百六十四人
弐百人村出し
下人足八拾人
右御上様より被下候分
人足八拾人 庄屋中川万兵衛 見舞
人足廿人 吉田小左衛門見舞
同百人 村方より
内
廿八人 一日づつ無賃ニテ勤候
三拾六人 村方軒別壱人
拾人 定使給増之内より見舞
四人 由吉井口御立合に鎌四(岡本家より出した)
廿弐人 駒場村より刎出す
当年井普請駒場村より請節内(岡本家の意)より刎出す
正味人足 四百九拾人 三月廿七日より四月廿日迠
雑用〆弐両弐分三朱
此米八斗六升 壱駄 二両二分
両 三斗二升
一升 三百文
両替九〆二百文
壱人ニ当リ壱升五合四勺
右ニテハ日用賃落候ニ付百人も増願書致候得共 御上様も御節迫ニ付大キニ迷惑いた□申候 以下略 (岡本家諸事留記)
以上は慶応二年の大風雨、元治元年の水害の復旧工事の一部であろうが、知行主、村方、村役人などの有力者が、どのように費用を負担したかわかる(Ⅳ-2表)。
Ⅳ-2 明治元年手賀野上井水堰替の人足分担表 (岡本家文書より)
上井水は明治三年九月八日の大雨にて、井水の土居長五〇間(九〇m)が破壊されたが、同年一二月一八日で笠松県に引きつがれたので、岡本利兵衛が出役している。そして笠松県より二百両を拝借して、村総出で修復にあたった。
この上用水は、明治四二年(一九〇九)に上宿方面へ延長されて、現在に至っている。その上宿用水の碑も建立されている。