[手金野下用水]

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取入口は斧戸七〇七の三番地、幅五尺(〇・九m)、用水路延長二八八八間(約五二〇〇m)、この下用水は、大永~享禄年中(一五二一~一五三一)につくられたと伝えられている。江戸時代以前にできているわけである。(現在は上巾、下巾、中沼、島崎、町裏などの小字を灌漑している)
 芥草紙(岡本家文書)によれば「当手金(賀)野村ハ駒場村ト同村也 天正年中之頃引別レ 手金野ト号ス……」とあるから、天正以前の駒場、手金野が一村であった頃つくられたことになる。
 関ヶ原戦後、駒場村は千村平右衛門の知行所、手金野は山村甚兵衛知行所となって、領主が異なったため、川除、引水などについて両村の間に水論が時には発生したようである。
 この用水路は、現在も使用されているが、近世以前に開設されたもので、中津川市内の用水路として、古い方に属するが、くわしいことはわからない。灌漑面積は約三五町歩(約三五ha)といわれている。岡本家文書には、次の記事がある。
 
 ○元治元(一八六四)申子五月廿八日大洪水本井筋(手金野下用水)欠ケ所出来 通水無之 仍テ駒場手賀野両村ニテ引請御普請出来致候次第左通
  一石垣長  八拾五間欠所
  右之普請入札にして 駒場村左蔵 手賀野村勝蔵両人ニテ落札仕候 日数廿日之間に出来の筈 代金弐百廿五両ニテ 此請六月七日に始 〆同月廿四日迠出来通水仕候 此時御代官 三尾勘兵衛様 御下役衆は松浦庄右衛門様 小川権蔵様
  福嶋御出役 御勘定奉行 上田武助様
        御目付   吉田長左衛門様
        御勘定下役 勝野惣兵衛様 (岡本家文書)
 ○慶応四(明治元年)辰閏四月十日 本井水門戸新規に相成候 尤戸だけは御役所にて出来 柱土台は村方大工に拵せ候(岡本家文書)
 ○明治二年巳四月二日 本井筋松源寺下にてかけ候に付 堀替の相談に相成 御上へ歎願致 松源寺土蔵の裏より浜湯場上(かみ)迠堀替申候 丁場始 駒場村と仕事場を分け申掛方は 松源寺垣外横井より下江致ス 居村(手金野村)分上(かみ)より廿六日堀申候
  下タ井筋料(手金野下井水)駒場分左通
  一九斗   井料米
  一壱斗   松源寺角堀替地代
  〆壱石 内弐斗は利兵衛(岡本利兵衛)より柳ヶ塚井料に候
 
 これらの文書によって、手金野下井水においても、知行所の援助をえて、村普請として用水路の修理を実施しており、用水が共同体としての村の大事な管理業務であったことがわかる。この資料では、実際の工事は普請入札で二名(左蔵と勝蔵)が請負っているが、手金野上井水では「廿八人 一日づつ無賃にて勤候」というのもあるから、この両方法が仕事内容、規模を考えて計画し、実施されたようである。
 この手金野下井水は、駒場村と手賀野村の両村にわたるので、工事分担の方式があったと考えられるが、ここにあげた資料では、くわしいことは分からない。
 他に手金野、駒場関係で、次の二つの用水路をあげておこう。