旱魃九〇日間

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この九〇日間を同日記によりながら、どのような対策(利水慣行になる)をたてたか以下月日順にとりあげる。
 六月一三日 天気吉 雨乞にて遊申候(雨乞として、鍬休み=農休みになっている。この大旱魃の年における第一回目の雨乞である)
 六月一五日 天気吉 庄屋殿を頼 水掛に上り 山田坂上より夜水 坂より分 昼水と訳(わけ)申候(昼水の田、夜水の田をわけている)
 六月一六日 天気吉 水番兵右衛門殿(百姓代)、長右衛門殿両人也 平右衛門内に参り候(用水を慣行通りに使う水番が二名)
 六月一八日 天気吉 雨乞に伊勢木引申候筈にゆい詰参り候(伊勢木引は細長い板を引きあうもので雨乞の一つである)
 六月一九日 天気吉 伊勢木引申候 水の義村役人中支配に頼み 暫らく水番を上げ 壱町田井を切落し 水七分取 いけ田井を九分取高沢に落し申候 水番村中より出(いよいよ水不足となり、用水から引水することは村役人支配となって、個人では操作できなくなった。飯沼村のうえ、枝村大野や広岡新田への用水の分岐である壱町田井を切って、三分は広岡へ、七分を飯沼に落し、それをさらに、いけ田井へ九分取、宮沢へおとしている。これらのなかに 飯沼本村と広岡新田との七対三の利水慣行)
 六月二〇日 天気吉 此洞井下不残(井水仲間) 高沢に上り 水等分致候筈にて明六ツ時(六時)より出、私方にて揃 源蔵 伊兵衛両人大平(字名)善助方へ遣今日高沢切落候間 心を付田不干様に可被成候 と申遣候処 善助挨拶に 井下(井仲間)と申ても大勢に候得は私壱人にて挨拶も難成候得は 右の段井下に申可遣候と申遣候……(明六ツ時 高沢井下へ水を切落すとして大平方へ連絡したところ、大平の百姓たちにその説明はしかねるというわけである。そこで水支配は村役人であるので、庄屋伊八、百姓代伊八も入っての水論となった)
       此段御被可成と申候得は庄屋殿 成程高沢井下慥(たしか)成証拠無之候得ハ切落され候ても致方は無之候得共 しかし、大平も殊之外水沸底にて大きに干候間 水ハ我等もらい可申候 両方共に水受取 村役人見分にて水つけ可申候間-略-(高沢井下と大平の争いについて、庄屋伊八は水は私ども村役人があずかって、村役人見分で行うという考えを示している。)
 六月二一日 天気吉 兵右衛門(百姓代)と槙島屋下より新田迠 新井口改つふし申候 夫より高沢まで不残上り高沢水半分井口にて切落 大平定右衛門、又六参り立合改 即 此方より私方ノ男右八下長右衛門 兵右衛門方の男水番 附置帰り申候(新井口は六〇年前に掛来候というものつぶして廻る。水の村管理を強くしたことが分かる。)
 六月二二日 (水口(みなくち)廻りを行う。廿三日は水を入れずに"あとヲめくり水通しだけ也"とあって田の水を次へおとすだけの水番であった)
 六月二四日 天気吉 -前略-壱丁田井の義 番水に頼参候 如何可致候と相談被成候に付 番水に致候而は大分干可申候間 只今迠通り七分三分にて置候様に致度候 夫共広岡役人中の思召も承度候間井下中として二三人広岡庄屋殿迠可参と申-略-番水之義井下得心不仕候間 三ツ割壱分壱丁田(広岡側)迠遣候可申候間 夫にて志めし候様被可成候 此方も御本田夥敷干候間 夫より余は得遣し不申候夫とも慥成証拠 書付等有之候ハバ何共可仕候と申候得は広岡庄屋惣十郎殿被申候共 此方に書付と申は一切無之候-以下略-(広岡新田との分水は、広岡方面三分・高沢(飯沼方面)方面が七分となっている。それを番水=一定の時間はどちらかへ流すような方式を、この場合は考えているようだ=方式にしてほしいという、広岡新田庄屋惣十郎の申入れをことわっている。)
 六月二五日 天気吉 私水番に出申候 高沢今日も半分落申候 いけだ 権六井 屋敷井 今日より水留(水利権の弱い田から、順次水留になっていた。)
 六月二六日 天気吉 高沢を落 山ノ田より槙上迄水通申候 いけた 壱町田迠昼夜に水番八人宛申候 洞の水番弐人出役人中に附あるき申候(水番の勤方がわかる、昼夜にわたっているし、村役人が指揮をしている。)
閏六月三日 天気吉 夜に入小雨 天たれ不落(雨だれがおちないでは、雨降の中に入らない。)
閏六月五日 天気吉 洞中申合新田迠上り井口ニ封付(新田への引水はできなくなった。本田に対して、新田の水利権弱し)役人中より外水掛候事成り不申候筈也
閏六月六日 恵那山迠八人 御前堂に拾人上り候筈-略-(第四章七節信仰恵那大権現参照)
閏六月七日 酒五升 赤飯壱斗むし持参仕候
閏六月一〇日 天気吉 壱丁田より井口せき候由承り井下つれ切払に七つ時上り 広岡庄屋にも右の段御役中より遣-略-(広岡新田の三分 七分を破って、井口をせき留めた者がいたので、早速いって切っている。もちろん広岡庄屋にも、そのことを伝えた)
閏六月一三日 天気吉 雨乞仕候 村中かま(鎌)留也(この日より十五日まで、雨乞つづき、十七日には殿様も雨乞をされたと記されている。)
閏六月二七日 天気吉 井下不残役人中共に新田に上り 高沢大平井三分弐落し さじき平井口より新田井口ノ分不残 呑水迠留 めうがた(明ケ田)本田には水少有之候故六斗まき(蒔)井口並ニ水少にて有之処ハ引 百苅に竹大縄四寸五分 夜弐寸と定井下不残寄合大縄持三人立掛人は六時[午後六時]迠に兵右衛門(百姓代)せど迠渡り 夜に入 槙ノ上より□□夫より下は宮沢より峯田に落し下井戸より八升蒔其外峯田済 明六ツ時に又山の田に上り申候(桟敷平より新田までは全面的に水留になり、その上で
      ・昼は百苅の田に火縄が四寸五分だけ燃える時間引水する。
      ・夜は百苅に火縄弐寸と定めた)
閏六月二八日 天気吉 下沢の男二人火縄持也 夜に入本田井口改帳面に致水掛申候 役人中私方江井下寄候
       帳面の覚
                    四拾五束苅
                        友八
       一 明か田忠左衛門せと井口八拾苅
                        右左衛門   
         〆百八拾五束苅    六拾苅 同人
               -以下略-

       (このようにして、上かいと(上外戸)井筋本田分三千百三拾束苅と宮沢井(峯田井)本田分弐千九拾苅二口〆五千弐百廿三束苅について、前記火縄の基準で、配水された。
       「覚」の記事については、はじめに書かれている「明ヶ田井口」の分を記して、以下略したが、記載されている井口をあげると次のようである。)
       ・明方忠左衛門せと井口 ・山ノ田井口 ・六斗蒔井 ・山ノ田坂上井 ・矢筈洞井 ・桧山井 ・上見ノ井 ・上之段井 ・藤四郎井 ・長右衛門井 ・はし子田井 ・中柴井 ・ひろミノ井 ・兵右衛門門田井 ・同人下沼井 ・同人皿田井 ・とや下井 ・ほり田井-以上「上外戸」井戸筋の分水井-・宮沢井 ・宮ノ後 三祢田井(峯田井) ・三斗蒔田井八升藤井 -以上「峯田井(宮沢井)井筋の分水井-
       右の分に百苅に付火縄昼五寸 夜弐寸宛かけ申候 尤 夜九ツ迠昼の割 朝五ツ迠夜の割也 高沢井三ツ割二分落し新田並に畑田越田を留
       右の通番水仕候 若し盗候者は雨降り迄井口留水番を致させ候筈也 
       (二八日では、①百苅につき火縄昼五寸(夜九ツ時まで)夜二寸(朝五ツ時まで)。②宮沢井筋へは三分の二落し。③新田、畑田などには引水しない。④番水して管理する。⑤若し勝手に水を盗む者は、井口をとめる。などをきめて 旱魃をのりきろうとしている。)
 七月二日 天気吉 村中雨乞に 亭主分壱人 日(火)之者(物)たち明六ツに御宮出雨乞仕候 家内の者は たばこ立(断)申候(村中あげての雨乞である。)
 七月二六日 廿七日 御代官田畑干焼見分

Ⅳ-3 明和7年飯沼村宮地日記にみる旱魃記事関係地域図