畑田というのは、井掛りのない田のことである(Ⅳ-4表)。したがって下流の本田へ迷惑をかけない、井水から引水しないという範囲で、湧水(地下水)又は沢水を利用するしかなかった。だから旱魃年は、第一番に干上る場合が多かっただろうと推察される。
Ⅳ-4 享保六年(一七二一)広岡新田畑田改め(鷹見家文書)
ここにあげる争いは、弘化四年(一八四七)~嘉永元年(一八四八)の二か年つづいた。岩村領郡奉行の裁決で和談成立となるが、言分が通った側である畑田の持主(久左衛門)の畑田一件の記録(鷹見家文書)によってわかる動きは、次のようである。
四月一五日(弘化四年) | 久左衛門と同じ井仲間である直吉、助十、集助、与吉、惣十、市蔵、勝右衛門等七人が久左衛門宅へきて、久左衛門に対して、大野村より申入れがあったといって、その内容について、 久左衛門殿不及申上 井仲間(大野村の井下) 之井水迄権柄(けんぺい)に切落し可申候 -略- 水門を堀外に水取候間 沢山水溜池干水幷梨の木に苗代を拵候処 当年は出水掛底に成候間 苗代替候 (久左衛門は、自分の畑田へ勝手に上井水之水を入れているのでこまるという大野村井仲間からの申込みと、久左衛門と同じ組内であるが、勝右衛門らは、畑田に水を引くので、溜池の水がなくなってこまるとの申込みをしたわけである。) |
四月一八日 | 夜 大野村の惣代が久左衛門宅へやって、直接に大野村の言分を伝えた。 其元之儀(久左衛門のこと)は出水(湧水利用)にて候得共 田に掛候得ば川へ果々出不申候……野え落セバ川迄果々出候処に御座候 田掛置ハ川江出不申候 (大野村の惣代たちは 久左衛門に対してあなたは出水(でみず)を畑田へ入れたのだといっているが、出水でも田に引水しなければ野から川へ落ちるのだ、田へ掛けてしまっては、川へ出ないから、出水といえども、畑田に引水してはこまる、と申込んだ。 |
四月一九日 | 夜に久左衛門の組衆がやってきて、大野村よりの申込みに対して、久左衛門が聞入れないので、同じ組内に居寄者として聞入被下候カ又は聞入無之カ二ツ一ツニ聞切被下候様ト申参り候 聞入無之に付ては乍恐御役人衆江出願候被申候 (組内の者として、畑田に引水するか、しないか、二つに一つ返事がほしい。聞入れのない場合は、おそれながら訴えるしかない、と久左衛門にせまった。) これに対して、久左衛門は畑田について ①天保六年(一八三五)岩村領より畑田開発御免の触によって、翌天保七年に田拵した。その時から当年(弘化四年)迠一二年間も植付してきたこと。 ②畑尻畑田は出水で養っており、去年も水当(あて)たが、大野村井仲間から一統に御沙汰もなかったこと。 ③今年も初春より田普請をしてしまい、田植間近になってから、彼是申されても、甚迷惑至極である。 と三点をあげて、同じ組内の者からの申入れも拒否した。 |
四月二一日 | 夜七ツ半頃ニ組内の者内談致シ参り候 其元左様(久左衛門)ニ被申候ては(拒否したこと) 組内之者 大野邑江相立不申候間 畑田之義付候ハ組之者ハ罷出不申候間 其外萬事 其元御了賢ニ可成候ト申来り候 (組の者たちは、畑田一件で久左衛門が大野村の言分を聞入れないので、勝手にしろと、組八分にしてしまった。) |
これ以後、五月 六月にかけて、大野村役人、広岡新田村役人をまきこんで、動きがつづく中で、大野村から岩村の奉行へ願書が出され、久左衛門も書面を差出した。これに対して岩村の奉行からは、今御本田の田植え時だ 争っている時ではないから、今年は このままとして、見分は伸ばすという下命があった。