江戸時代の新田開発

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江戸時代の新田開発について、一般的にいって、初期に実施された総検地(第二章検地・貢租)以後開発された耕地を新田と呼ばれている。
 しかし、岩村領内にはっきり見受けられるが、元禄以前に検地した田畑を「本田畑」、元禄以後で享保以前の新開を「古新田」、享保七寅年に認めたものを「寅新田」というように、免定の上でも区別されている場合がある。
 いずれにしても、太閤検地段階で二〇〇町歩の耕地といわれているのが、明治維新時には約四〇〇町歩に増加している。
 新田つくりには、
 ①在来の耕地に接して 耕地を広げていく「切添新田」。
 ②新田となる区域を定めて 大規模に開いて 移住してくる農民によって新しい村をつくっていく「村立新田」。
 がある。
 また、施行主別に分類すると、
 ①土豪開発新田。(市岡喜平次開くといわれる子野の場合)
 ②知行主営新田。(中津川第一用水)
 ③町人請負新田。(篠原長八郎の茄子川鯉が平開発)
 ④代官見立新田。
 ⑤村請新田。(阿木槙平開発)
 にわけられ、江戸時代前半には、①②のものが多く、中期以後に③④⑤が多くみられるという(新版郷土史辞典)。
 [参考]
 茄子川開発
 茄子川地内堤下開墾は天明度の飢饉の際である。面積一五町歩の水田を起し、二町歩の大水源池を築いた。有志等二五人が之を経営した。鯉ケ平開墾は篠原長八郎の経営である。水田約四丁歩、天明飢饉の年にあたり、窮民救助の目的にて之を計画したのである。畦畝整然頗る進歩したものである(恵那郡史)。