元亀の水害から開発まで

642 ~ 643 / 922ページ
「元亀元年(一五七〇)五月 大雨ニテ 越沢 松沢 馬籠沢 大水押出 大野村へ押込一時の内に 白河原と成 家数五拾何軒の処 十二三軒に相成 一村絶と相成候処」(古江龍泉寺道由来イ之事今井久輔鷹見家文書)となって、一時は荒れはててしまったが、松平和泉守(家乘)が岩村城へ入城した慶長六年正月より、四年後の同九年に雑木切払が行われ、開発の手はじめとなり、八年後の慶長一四年(一六〇九)の検地のおり(岩見検)に「滝ヶ沢口より井露ヶ峯の麓迠の間、勝手次第開発してよい」(広岡開発覚鷹見家文書)と申渡され、むらむらより入植し切開がはじめられた(広岡神社由来記)。
 以下、年を追ってあげてみると、
 [慶長一五年](一六一〇)雑木倒し 少々切起し
 [慶長一七年](一六一二)新田不作続き 一統難儀仕候故 切起見合セト相成
 とあって、この年までに開いた田畑以上の開発は、一時中止となったが、「代々譲日記」(阿木広岡大柳今井家文書)の記すところによると、「私先祖ハ元和四(一六一八)戊午年 当村大柳平始開発イタシ候……」とあるから、まったく、開発が中止したわけでもないようである。