「新田開発御再開トナリ」、岩村領主丹羽氏定は、青野村の鷹見弥左衛門の子弥平次に、開発の指揮を命令した。阿木村広岡地人誌には次のように記されている。
青野鷹見弥左衛門正国長男弥平次正次 慶長二年生レニシテ 青野父正国ノ後ヲ相続致シ 其ノ後岩村御城主ノ命ヲ拝シ 慶安元年広岡新田御開発ニ付キ 右支配被仰付 青野本宅ヲ男子利右衛門ニ相渡シ 二男杢右衛門ヲ召ツレ 広岡新田ヘ移リ……以下略
弥平次は広岡の清水に居をかまえて、開発を指揮したが、寛文三年(一六六三)に青野に帰り、同六年死亡した。岩村城主丹羽氏定は、この開発にあたり、新田一反につき、種子一俵、無利子三年元返として三八俵(三町八反分)を出して、開発をすすめた。
こうして、寛文三年、弥平次が青野村へ帰った年より見取上納がはじまり、延宝六年(一六七八)まで、一六年間見取がつづいた。