見取上納

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見取上納については
 
 寛文三年 見取上納百姓数三七名
      納高一一石九斗
      代官 小栗七兵衛
      庄屋 加(嘉)平次
 
 個別上納高をみると、庄屋加平次二・四石、組頭七蔵一・四石、他に一人一石以上があるのみで、他は一石以下であり、二斗以下二五名となっている(Ⅳ-5表)。

Ⅳ-5 寛文三~八年広岡新田見取年貢

 この表は、寛文三年より延宝六年までの一六年間のうち、はじめの六年分(寛文八年まで)を表にしたものである。
 この表に延宝六年までの動きをくわえて、一人一人の様子をあげてみると(鷹見家文書)。
 
一番清右衛門  阿木本郷阿曽田より(二五番兵吉も同じ)
二番加(嘉)平次   庄屋、寛文四年二男四郎右衛門に譲る。二七番加平次分は同年に加右衛門にうる。寛文九年大野村池田の弥十郎分買受ける。延宝四年に一八歩切起す。
四番加右衛門  七番小左衛門 三河より広岡に入る。
五番弥吉    越前より入る。寛文四年に新五郎へ譲る。同六年に仁兵衛に売却する。
九番㐂三郎   大野村住で広岡地内開発
一〇番久左衛門(五右エ門) 飛驒からきた山師で(酢梨平に田畑切起、今に五右エ門屋敷の地名がある)、広岡へ入って切起す。本人は飛驒へかえり。その子久三郎がつぐ。
二九番与右衛門 土岐氏の医者石黒道庵の子であり、与右衛門の子は岩村城下にて、医者休庵となる。
一四番孫三郎  元亀山崩にのこった一三軒のうちの一軒で、開発にくわわる。
一五番七蔵   組頭となる。阿木本郷加狭より、広岡に入る。
一八番惣十郎  佐々良木村から川上へ、次いで広岡開発にくわわる。
二〇番 孫十郎分市兵衛 市兵衛は寛文三、四年だけ見取年貢を出して、断えている。
二二番 久(又)五郎分次良右衛門 井の口久(又)五郎分は、大野村分としてであろう。そこへ次良右衛門が入ったのであろう。
二四番孫平   寛文五年 惣十郎買受ける。
二六番新三郎  寛文四年 長五郎買受ける。
二八番吉右衛門 元亀山崩れにあった人の子孫で、再び広岡に入る。
三二番茂吉   右衛門平で、土岐明神社は、この人の主人筋であろう。主人の墓守りをしながら、土地を開く(巌邑府誌)。
三六番治右衛門 青野鷹見弥左衛門二男権十郎の子で、阿木本郷久須田より広岡大柳に入る。
 
 以上のまとめをしてみると
 ① 見取一六年間に去る人一二戸、その後をつぐ人、売買なども行われた様子であるなかで、寛文三年の家で延宝六午年(一六七八)まで、確実につづいた家は、Ⅳ-5表に示すように一五戸である。
 ② 各地より広岡に入って開発に参加していること、また元亀山崩れ以前に広岡住の人が再び入っていることなどがわかる。そして この人たちの一族が広岡に分家して増加していったのであろう。そのことは、寛文三年~延宝六年の一六年間をとっても見取年貢を納める百姓家数は三七戸から延宝六年四二戸(あるいは四一戸)と増加していることでもいえる。
 ③ 潰れ家は庄屋預りとなったが、別の人が入って その名跡をついで田畑を耕作をすることが、すすめられたようである。
 ④ 寛文三年~延宝六年の一六ヶ年で、約一八町歩を切開き、又は起帰しをしているが、その間の見取年貢の年別合計は次のようになる。
 
 寛文三年 一一石九斗
 同 四年 一〇石九斗
 同 五年 一〇石四斗
 同 六年 一〇石一斗六升
 同 七年 一一石一斗一升
 同 八年 一一石五斗八升
 寛文九年 一〇石二斗
 同一〇年 一〇石九斗一升
 同一一年
 同一二年 一二石三斗六升
 延宝元年 一四石三斗九升
 同 二年
 延宝三年
 同 四年 一三石四升
 同 五年 一三石七斗四升五合
 同 六年 一四石二斗二升五合
 
  寛文三年と延宝六年の合計差は約二石三斗で大きくないが、延宝年中に入ってから、見取年貢が二石余増加しており、これは開発の生産が安定してきたためであろうか、延宝七年検地となる。