貞享四年(一六八七)の絵図には三七戸が記入されているが、元禄七年(一六九四)には「広岡村庄屋 四良兵衛」と奥書された「家数改メ覚」がある。大野村とはいっていないことを注意しなければならないが、
家数七拾五軒
男百九拾九人
人別三百九拾五人 内別
女百九拾六人
馬二拾五疋
牛 八疋 (鷹見家文書)
として、このうち本屋敷〆六一軒付小家数拾八軒をあげている。家の大きさについて幅二間、長さは五間程までが大部分である。
元禄一五年(一七〇二)の年貢免定には「美濃国恵那郡岩村領広岡新田午御物成可納割付事」と表記されており、大野村の記入はない。
翌元禄一六年の免定の表記は「美濃国恵那郡岩村領阿木村枝郷広岡新田未御物成可納割付之事」となっており、この年はじめて、枝郷広岡新田とはっきりしたわけである。
広岡新田が阿木村枝郷として、公認されるのが、延宝七年に検地をしながらおくれた原因に 飯沼村との「山論」があった。問題の場所は龍泉寺山一帯の所属が阿木村と飯沼村の山論になった。広岡一帯はそのつづきでもあるので、争点の中に入っていた。
阿木村
慶長一七年(一六一二)龍泉寺観音堂を建立して、阿木村で堂守をしてきており、一帯は阿木村の山である。
寛永四年(一六二七)寅年六月一八日朴沢にて岩村今井嘉兵衛奉公人㐂太郎が、苗木の商人市蔵を切った由、この時、巣番としていた者は阿木村寺領の弥惣と弥左衛門、野内の小八、藤上の友市などで、阿木村よりでているから、龍泉寺山一帯は阿木村所属である。その他、公儀絵図に出ているなどをあげている。
飯沼村
大野村が飯沼村枝郷として大閤検以来あること。
「こいたを」という場所に飯沼小屋があること。
和泉守(松平)の時代に広岡を飯沼村枝郷と書入れ、山を広岡加付としたこと。
などをあげている。
寛文三年(一六六三)阿木村の者が飯沼村の者に斧一丁、鉈二丁を龍泉寺山へ薪取りにいっていてとりあげられたことに端を発して以来山論はつづいた。
元禄一六年(一七〇三)八月一〇日
阿木村庄屋 組頭 広岡庄屋 組頭 飯沼村庄屋 組頭 が岩村に召寄られて裁決された。この裁決「広岡新田は阿木村とする」によって、阿木村枝郷広岡新田が決定したわけである。この時山境も決定したけれども、享保、寛保二年、天保二年、嘉永から、明治まで山争いはつづいた(氏々譲日記今井家文書)。