旧阿木村当時にまとめられたが、原稿のままで中止されたものである。その阿木村誌考によると広岡開発は、次のようである。
広岡の開発の由来
慶長九年三月十五日 検分 新田を開くための検分あり
年寄 水野宗左衛門 鈴木権太夫
用人 河合帯刀
目付 今井弥太夫
郡奉行 藤田勝馬
同年七月 新田山雑木払い
八月 御山引渡
九月下旬 三か年伐取り相成代金百五十両 引渡
勝手用人 今井弥太夫
郡奉行 藤田勝馬
同断 中川善之丞
雑木伐取候後 引続いて 同十五年庚戌 新田開発になり 岩村御屋敷より堀井嘉平次 新田各重役にて 清右衛門 市助 嘉右衛門 其外大勢召連候て 先づ広岡平という処を切始め候処 釜戸平山より甚十郎草刈り始む 阿木村見沢より長右衛門 助右衛門は清水平に始む 富田村より九郎兵衛 小左衛門は清水平 次右衛門は大柳平飛驒国より久右衛門(大柳平) 大野村又右衛門 新三郎(大柳平) 川手村より㐂右衛門(足ヶ口) 大野村孫三郎 理右衛門(足ヶ口) 大野村弥十郎(池田) 大野村佐次右衛門(丸山上) (八升洞向い) 藤上喜兵衛(母衣田)、大野村百姓荒所々起候
寛永十七年-慶安元年 見分少しあり(八年間)
慶安二年 堀井㐂平次 青野弥兵次(平治)(この人清水梨沢口に始む)を差遣し 談事 上様より米三十俵拝借を願い年済にて 上納を願う 是を双方へ割付 一統勢出し 開発する 竹折村七蔵(川狭に住み広岡へ)萩原にて始む 佐々良木惣十郎(川上に住み広岡へ)その外所々一統切開候
慶長十五年より五十四年月寛文三年 はじめて見取年貢上納で延宝六年まで十六年間なり 見取免定拾六本あり
延宝七年 検地 地位三通 古新田 切起新田 下新田の検地帳三冊 この外に御見取帳一冊之有 もっとも寛文三年御見分奉受候より 堀井喜平治 青野弥平次(兵次)老年に相成 双方立帰候 その後広岡新田名主として御家敷あり 田島四郎兵衛つかわされ候 よって御見取御免定の内 はじめの癸卯(寛文三年)は名主㐂平治とこれあり 都合五本は四郎兵衛に御座候
延宝七年 検地受奉候 丹羽様御代の御免定二十三本 これあり よって当村古より連綿と栄へ候事 代々記シ置キ候処――中略――大野村起帰りには 御免合高く候間 大野村新田と名附 広岡新田を大野村の者に起させて 大野村の御取立なられ候 慶長年中に御見分なられ候て 新田開発として山の内にて山稼致させ 色々手当これあり候て 大野村又栄候事 新田始まりにて 少し休み又始まり 各〻勢出シ候て 寛文年中より弥〻繁昌仕り候
大野 広岡は元一村の如し 御見取御免定に大野村とこれ有 又検地帳にも大野村とこれあり候 当新田開発の儀は 元亀年松沢両谷大水大野村を流し込み 遂に大野忘村に相成候処也 元五十五、六軒これあり候処を十二 三軒と 古高九十六石の処三十九石とあいなり候 都合差引て高五十七石の高失忘候也 その頃は檜 椹長三尺三方三寸 腹二寸の榑木五十六こ叶じて 御年貢あいすみ候 慶安年中之頃迠 御山の番杣を仰付られ 御山の御用つとめ候
大野番杣日替の番 或る日ねずこを取り候間番者は阿木村妻神にて御死置相成候。
と広岡新田の開発由来をまとめあげている。