両伝寺村の開発

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阿木村枝郷両伝寺村の開発については、同地区の旧家七軒の一つである今井家由来、同地に立つ荻野平右衛門供養碑、青野鷹見家文書などによって、その大略を知ることができる。
 慶長六年(一六〇一)岩村城主として松平家乘が入城するが、その家臣に三河国大給生れの荻野平右衛門がいた。彼は家老職まで進んで、両伝寺の地を知行所として与えられたのであろう。その隠居後両伝寺に住居をかまえて、水田開発をはじめ、寛永九年(一六三二)四月に七〇歳で死去した。
 松平家乘家は二代にて、岩村から浜松へ移封となり、丹羽氏が岩村城に入る。
 こうした開発の由来によって、村立新田(新田開発による枝村)の両伝寺村には、
 ① 古田高(太閤検)の本百姓でないから、諸役免許。
 ② 阿木村本郷とは、別に年貢免定が下し置かれ、年貢取納勘定も本村とは別である。
 ③ 従って、高札場、郷蔵も阿木村本郷とは別になる。(高札場は天満宮を通って黒田への道筋にあったという。)
 ④ 当然ながら、宗門改めも両伝寺村として実施される。
 ⑤ しかしながら、小さい村であり、村役人は組頭一名で、庄屋は在村せず一般村政は本郷に指示された面もあろう(青野鷹見家日記)。
 という特色をもっていた。
 用水は字宇登洞にて、不動川から取水し、両伝寺の田に引水した。この水は再び不動川に落ちるが、この用水の下から「殿様井水」と呼ばれる用水がトンネルをぬけて、打杭までいっていた。
 現在の両伝寺の水田は約八ヘクタール(約八町歩)あり、少し前までは、どの家にも茅葺屋根の水車小屋があったという[今井勲市氏談]。
 元禄一六年差出帳によると(市史中巻別編)
 
 一 古新田高 一六石一斗六升二合六勺六才
   うち中田一石二斗八升
     下田一二石七斗六升六合六勺六才
     下畑二石一斗一升一合
     田畑合計面積一町七反三畝一八歩
 一 新田高 九石六升四合六勺
     上田一升四合
   うち下田六石三斗九升
     上畑二斗八升六合六勺
     中畑八升
     下畑二石二斗九升四合
     田畑合計一町六畝三歩