禎祥院慶譽宗賀居士の戒名と右側碑文
寛永九年(一六三二)壬申歳四月二十五日行年七十歳(永禄五年生)
俗名 荻野平右衛門元雄後一平次改之
明和五戊子歳四月二十五日
荻野甚五左衛門元孝 奉之
左側碑文に荻野平右衛門元雄(たか)の略歴と功績をきざみ、同裏面碑文は子孫である荻野甚五左衛門(荻野氏五代目)が先祖を敬い、感謝してこれを建てると、その建立の趣旨がきざまれている。この供養石碑は約一・八m四方、高さ三三cm程の土壇を築き、その上に台石を据え、長さ約一m、幅約三三cmの四角型の碑であり、屋根形石を冠としている。
平右衛門の菩提寺は松平家乗岩村入城に際して、移転してきた浄土宗隆崇院であり、その戒名からも、彼が家老職という要職にあったことが分かる。
この供養碑については、昭和四〇年三月に山辺常左衛門氏の依頼で稲川阿尊(墳碑研究者、北海道小清水町住)氏が調査している。そこで、左側碑文、裏面碑文を転記すると共に、同氏の解説を転載させていただく。
[左側碑文]
荻野墳碑 (荻野元雄の墳墓の碑)
岩村東部阿木有一培塿松樹植焉土人杯為荻野墳蓋我宗藩光大夫荻野子之墓也 諱元雄従参之大給来臣事 大聖公 公移封岩邑従徒焉職至執政食釆阿木兩傳寺後告老居干斯卒而安焉其三男元資分族我藩五傳至今之元孝夫荻子於国古之遺愛也
(解読)
岩村の東部阿木に一つの塚が有って松の樹が植えてある。土地の人々は称えて「敬(うやま)う」荻野さまの墳墓となす。けだしこれは我が岩村藩最初の松平氏に仕えた大夫(たいふ)(執政)荻野の墓なり。いみ名は元雄(たか)と称し三河国加茂郡大給(おぎう)より来りて松平家乗公に臣事(家臣となり仕へる)する(即ち松平親忠の二男の乗元が大給に住み、因て大給松平氏を称した。その故地の出身)そして家乗公が岩村へ転封に際し随従して来て執政の職に至り、阿木兩傳寺を食釆地に賜わる。其の後老命となり此処に居り、水田開効(かいこう)を遂げ安んじて卒去したのである。その三男の元資が分家して居た。それから我が岩村藩は丹羽氏五代を経て、今の元孝に至る。それは荻野氏が国(岩村)に於て古く之を遺し愛されて、その子孫宣(よ)くつづきてたへなかった。
[裏面碑文]
宣其子孫縄々蓋自 大聖公百有余歳中間移封者十数所其世臣故家之墓在其地者累々不鮮惟荻子而後挙称之時祀不絶者 将其政治所以得民心有異干他者乎爰其百数年之遠而追思弗已哉矧我光公再封此地本支累世歴々於二藩又使其孫子親得奉其蘋蘩者天之報善人可不謂厚矣今茲元孝立石
(解読)
けだし、家乗公より百余年中の間に封を移す者十数所。その世臣の古い家の墓が其の地に在るもの累々としており鮮かならず。之荻野元孝が後に之を称え挙げ、時に祀り絶さヾる者(は)まさに其の政(まつり)を治むる所以にして民心を得ること他に異なるもの、有るなきか、爰(ここ)にその数百年の遠き思いを追へて弗已(いんぬるかな)矧(いはんや)我松平乗政公、再たび此地岩村に封ぜらる。本家と分家と、累世歴々(代をかさねること)二藩(初代家乗=次代乗政)に於て、又その孫、子、親をして奉ずることを得たり。その頻繁する者(は)天の善人に厚く報ゆるものと謂(い)うべからざるか、今茲に元孝立レ石
~歿年より建碑の年まで百三十六年是より今(昭和)四十年まで二百二年になる
以上碑文大概解説考証を遂げたりと雖も正鵠期し難し、仍て賢者の推考を翼む
Ⅳ-7 両伝寺開発の祖 荻野平右衛門の墓碑