寛保三年(一七四三)に始まり、延享二年(一七四五)に完成した木曽湯舟沢村霧ヶ原の新田畑について、この田畑を希望をする者はないかと、触を各村へ廻して、望む者に入札するよう下命している。
それによると
一 信州湯舟沢村霧ヶ原野□今般御入用を以左之通田畑切起置
田方九町歩余
畑方拾七町歩余
但し田畑惣曲輪
廉垣囲ひ今年
御入用ニテ仰付来ル
二月迠ニ出来之筈
一 右田畑共ニ寅卯二ヶ年(延享三・四年)無年貢之積
一 三ヶ年目辰年ゟ申年延五ヶ年(寛延元~宝歴二年)之間定納御年貢ニ而二ヶ年田方壱反ニ付米四斗
畑方壱反ニ付米三斗五升
差上之筈
一 右五ヶ年過酉年(宝暦三年)ゟハ田畑共ニ指見之上作毛見立次第ニ御年貢差上筈
右之通ニ候間 望之者ハ田方壱反ニ付地代何程 畑方壱反ニ付地代何程迠差上田畑共ニ何程づつ請取申度旨委く書付ニ対シ候而当閏十二月十一日迠ニ可差出候 己上
丑十二月(延享二年) 森村甚左
此木伝六 (手金野岡本家文書)
湯舟沢村霧ヶ原新田畑合計して二六町歩余の耕作者を入札募集した文書である。この文書から、切起しの場合、二年間は無年貢、三年目から五ヶ年は田一反に付米四斗、畑一反に付米三斗五升、それから検地して年貢を課するとしていることが分かる。
しかし、安永四年(一七七五)に山村氏が千村喜左衛門、大脇文右衛門の両名の名前で湯舟沢村の庄屋、組頭あてに出した上納通知書(市史中巻別編)によると。
一 田 三町三反歩
取米四石四斗五升五合
反 壱斗三升五合
一 畑 七町弐反五畝歩
取米弐石壱斗七升五合
反 三升
一 田 九反歩 (井水取建地の年貢)
取米九斗 反 壱斗
田畑〆拾壱町四反五畝歩
米〆七石五斗三升
となっており、田畑合計二六町余開発の予定が、実際はその半分以下の一一町歩であり、年貢の割合も田は反に四斗、畑は反に三斗五升とあるが、田は一斗余、畑は三升となっており、予定通りの収穫をあげることができなかった新田開発であったことがわかる。
また、同文書によれば「廿二ヶ年以前戌年井水取建……」とあるから、霧ヶ原の井水は宝暦四年にできあがっていることが推察される。