天和二年の指上新田

662 ~ 665 / 922ページ
天和二年(一六八二)に山村甚兵衛、千村平右衛門ら尾張の給人が尾張徳川家に新田などを差出しているのは、その一例であり、以下に、その大略をあげてみる。
 山村家留帳によると、天和二年正月一四日、尾張寺社奉行山内治太夫、同御奉行小山市兵衛へ御状を出して、
 「殿様御身体(尾張徳川家(身代))不被為成候付 家中衆所持之松林 芦原 新田等存寄次第被差上候由承及候 就夫此度之義ニ御座候間拙者(山村甚兵衛)知行所之内御用にも可相立品も御座候ハバ……中略……乍小分新田并林指上申存候……以下略」
 として、杉井十太夫を使者として、名古屋表へ出している。
 指上の新田などは以下の通り、
 
 今度指上候新田并秣場所覚
 右同断
 一 田畑六町九反拾八歩
   内検高五十三石二斗六升七合
   見取米九石六斗二升五合
       寅ゟ申迠(寛文二~延宝八)十年概
            大湫村新田
 一 田畑三町九畝廿一歩
   内検高廿九石二斗八升九合
   見取米五石八斗五升八合
       同
            本郷新田
 一 田畑弐町五反八畝三歩
   内検高二十六石七斗七升四合
   見取米九石一斗三升八合
       同
            美佐野新田
 一 田畑壱町二反廿一歩
   内検高十二石六斗三升六合
   見取米四石一斗八升二合
       同
            辻原新田
 一 田畑壱町五畝六歩
   見取米壱石六斗三升
       同
            大萱新田
 高〆百廿壱石九斗六升六合
  此見取米三十石四斗六合
 右ハ旧冬上置申候概帳ニ書記申通ニ御座候一美佐野村二ヶ所之山内町間多山一ヶ所甚兵衛平右衛門両人ゟ指上申候山ゝハ美佐野村宿村中切村井尻村一日市場村五ヶ所之川除井せき用木之年々取来候付残置申候
 戌(天和二年)正月廿一日  御名(甚兵衛)           (山村家留帳)
 
 以上でわかるように、関係分の中に「辻原新田」として「田畑一町二反二一歩 内検高一二石六斗三升六合」が含まれており、辻原、中洗井村内に新田畑が切添されていたことがわかる。
 この差出しについて、同年二月六日、山内沼太夫、小山市兵衛より、山村甚兵衛、千村平右衛門扣新田畑などの指上は承知された通知がきた。
 ところが、この「指上新田」について、指上た以上は尾張蔵入分として、尾張徳川家より代官が派遣されるときくが、それはこまったことだと、同年八月二九日に山村甚兵衛は千村平右衛門に大意は次のような書状を送っている。
 「代官が派遣されるときくが、もしそうなると、本田と新田が入り交じっていて、支配が異なることになり、百姓に争論がおこる心配があるから、指上といっても、この土地の年貢をとりあげて、差し出すようにしたら、どうか」、
 と相談をかけた。平右衛門としても、まったく同意見であり、同二年九月七日、甚兵衛、平右衛門連名で尾張国奉行に対して、
 「指上新田について、年貢をきめて、米でも、金銭でも、どちらでもよいので指出すというようにしてほしい」
 と書状を送った。御国奉行からの返答は、同年九月一三日にとゞいた。その内容は、次の通り。
 
 御紙面并御使者口上承知仕候 其元ニテ新田被成御支配 御物成米ニテ成共金子ニテ成共支配之方ヘ納申様ニ被仰付候ハバ御代官手間も入不申一段ト能御事ト存候 金子ニテ御納候筈ニ御座候テ米直段之儀ハ其節之相場次第カ又ハ大井ニ有之御蔵米払直段カ 御当地御蔵ヘ納申直段右三色之内ニテ御座候間 其段重テ爰元御留守居ヘ申達候 (山村家留帳)
 
 とあって、新田は、山村・千村両知行主が支配し、おって、年貢を指出すという方法でよいが、金銭の場合については、相場があるので、その時の相場、大井相場ともう一つ支配知行所内の相場か、三つの内にて、どれにするか、返答がほしいというものである。
 このように殿様の財政を救うために、給人知行所内の新田を蔵入分の収入にしていくことがおこなわれた。