安永二年の縄入

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塚田手鑑によると、安永二年(一七七三)に、孫兵衛名儀で大坂屋文吉後家が耕作している新畑と同じく孫兵衛名儀の新田を買いもとめた五左衛門の間で境争論がおきた。この時に文吉後家の甥の万右衛門が、尾張の目明(めあかし)[江戸時代に諸役人の手先きとなって私的に犯罪の探査・逮捕の助けをする者]に取入って尾張領当局へ願出たことが、発端となり、落合村の新田をめぐっての争論がはじまった。以下はその大要を記した塚田手鑑の記事から、引用したものである。
 
  …略…落合村には新田畑多有之候 尾州御見取候御年貢共召上 新田御年貢御取立被下候様にと願[万右衛門の願]に付御上[尾張侯]沙汰に相成 尾州御用人衆様より御地頭[山村・千村両給人]様へ御沙汰に及夫より万右衛門御百姓共を誘い合新田畑持不来候百姓をかたらい 惣山之内小橋原并井林之内に新田起申度旨願書等差し出候に付 古新田は御改御縄入申候 然共(しかれども)新田年貢御取立被成候ハゝ共落合宿役相勤不申に付 其段を尾州御役人衆様へ御仰達候 年貢御取立は無之候 依て万右衛門願上皆々相叶不申候
 
 万右衛門は尾張の目明しに密告し、表沙汰にしてもらって、落合村の新田検地となった機会をとらえて、新田をもってない百姓らを誘って願いでて、新田検地を受けて、新田持ちの百姓となると同時に、新田が尾張蔵入地になることによって、五左衛門ら落合宿役人の支配からはなれようとしたのであろうか。
 また、尾張当局も蔵入の増加になることであるので、この話に乗ってきたのであろう。こうして、同年一〇月御縄入(尾張領当局による内検)となった。
 しかし、宿高が示しているように、新田分だけが、蔵入となってしまっては、落合宿役人は宿の仕事ができないと主張したため、この話は、そこまでとなった。