衣服の制限

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寛永二〇年(一六四三)三月 幕府は土民仕置条々を発して、これを堅く守らせるよう代官に申渡している。そのうち農民の生活上の制限をあげると次の通りである。
 ① 家作は身分に応ずること。
 ② 庄屋は絹・紬・もめん。一般農民はもめん衣類を着用し、えりや帯も絹織物を禁止。紫・紅梅に染めないこと。形なし[模様なしか、しまに染める]に染めること。
 ③ 食物は常に雑穀とし、米はみだりに食べないこと。
 ④ うどん、きりむぎ(冷麦)、そうめん、そばきり、まんじゅう、とうふなどは五穀の消費になるから商売物にしてはならない。
 ⑤ 酒をつくることを禁ずる。他所から買入れて商売をしてはいけない。町へ出て酒を飲まないこと。
 ⑥ 乗物に乗ってはいけない。
 ⑦ 仏事、祭礼などは身分相応にすること(可児市久々利木曽家文書)。
 これらのことから考えると「士農工商」と工商の上位に農民を置き「御百姓」などと称しているが、この条々を見る限り農民の人格を尊重したものでなく、ただ生産を確実にさせて、自分の作った米さえ自由に食べさせず、年貢を取立てる手段としていたことがわかる。
 また、有名な慶安の御触書[慶安二年(一六四九)二月諸国御郷村江被仰出]では「朝起きを致し 朝草刈り 昼は田畑耕作にかかり 晩には繩をない たわらをあみ 何にてもそれぞれの仕事 無油断可仕事」などと、労働のやり方や 大豆葉や落葉までも食用にすることを心得として申渡している。家作については 享保七年(一七二二)一一月、「自分新規ニ家作致すべからず……」と、新規の家作を禁じている。このように、度々出される幕府や各大名領の条々や倹約令など(市史中巻別編(三)参照)は、そのつど農民の衣類が華美になること、仏事や慶事が奢侈になることを禁じた。
例えば、明和元年(一七六四)一二月 岩村領大野村[飯沼村枝村]の差出申連判證文では、
 
一 男女共からかさは相止 檜笠を用う可きこと
一 男女共手ぬぐい長サは 男弐尺五寸、女は弐尺弐寸と限り可申候幷ニ女共まへかきも只今までは紺又ハ花色などニ仕候得共自今は手染の縞に可仕候
 
 と、食物や着物、それに住居の他に、かぶり物、前かけの染め方など日常生活のすみずみまでも規定し、または自主規制を促している。衣類については、木綿を主とし染色も紺のような地味な色ばかりで模様があっても縞ということになっている。
 この地方だけの特異な着物があったとは考えられず、服装は近世の農民の姿を描いた当時の記録に見られる農民の姿と同じだったにちがいない。それに庄屋・長百姓などの上層階級と一般農民との間には身分による着物の生地素材に差があったが、そのことを享保六年(一七二一)の苗木遠山家の「百姓衣類定書」は、日常生活の衣類の素材は身分の差なく、木綿としており、夏着は麁布[ぬい目の粗い布]を着るとしている。庄屋・長百姓が他所で会合のときは、絹・紬までの着用を許可しているが、上平類の袴や、夏着は薄い絽や紗の紋織の絹布を禁じている。また、庄屋・長百姓の娘と女房には、正月の着物として紬類・帯は絹、紬の染帯が許可され、婚礼は絹以上は不可となっている。一般農民はどんな慶事の場合でも木綿を着用しなければならなかった。
 明和三年(一七六六)の元日に岩村領飯沼村下沢の娘が禁じられていた綿入れのふり袖を着ていたが、これは、村方で内々に処分をしている。衣類に関してのこのような実例はなく、実生活の上で衣類についての制限が規定通りに行われたかは分からないことが多い。この様に倹約の触が出されるたびに、同じ内容の規定が出されたり、申合わせがなされるのは、その様な制限が守られなかったことを示している。