慶安の御触書では、農民は「……麦粟稗菜大根其外何にても雑穀を作り 米を多く喰つふし候ハぬ様に可仕候……」と、あるが、農民が米飯を食べられる日は、盆・正月の日か仏事。それに激しい労働である田植えや稲刈りのときばかりで、それ以外はこの様な規制がなくても米飯が充分食べられなく、ふだんは雑穀入りの飯を炊くのが実情であった。
明和元年(一七六四)一二月、岩村領内の倹約「申合覚」[倹約に付き]は、この地方の習慣として秋の収穫期に米飯ばかりを食べているが、他国には無い習慣で、後々の心掛けがなく、春になると食べ物が不足し、麦の早刈りをしなければならない。今後、この習慣をやめ、田植えや稲刈りなどにも、雑穀飯を食べるようにと言っている。また、はれの日や農繁期などの食事の制限を次のように申合わせている。
(1) 正月三か日の祝いの肴は田作りと鰯に限り、とうふ、こんにゃくなどは一切つかわない。格別の客があったときは一汁一菜、里いも、ごぼう、切り昆布に肴はさよりに限る。正月一五日の餅花、まい(ゆ)玉は心ばかりのものとする。
(2) 五月節句、田植えの祝いの配り物はやめる。田植え・稲刈りの手間かわり[労働交換の結のこと]は昼食だけを用意し、ぼた餅は一切やめる。
(3) 九月より一一月までの祝い日、麦祝い、刈納め、こばし祝い、一一月晦日の祝いは、ぼた餅をやめて小豆飯とする。十七夜(月待)祝いの配り物はやめる。
この他に塩、醬油の調味料、年祝いの田作りや鰯、田植えの田作りを村にてまとめて購入しそれぞれに分けることを奨励している。倹約の申合をしたハレの食べ物や農作物については、第四節年中行事を参照し、当時の食事の一端をうかがい知る参考にされたい。
食生活の中での蛋白源の一つとして、鯉を購入し飼っている記録が残っている。文政九年(一八二六)八月から翌年八月にかけ、青野村[阿木村枝郷]の弥之右衛門は、鯉二二七尾、もろこ五八尾、金魚一五尾を手に入れているが、鯉ともろこは食用にしたと考えられ、文政一〇年(一八二七)に求めた鯉は一八三尾。代銭二朱ト銭六〇文を大坂の鯉屋に支払っている。東野村清助より鯉二七尾、清右衛門から一七尾の鯉をもらい、だんだん数を増していくのは、養鯉を考えてのことだろうか。大坂から鯉が移入された事実も合わせると各所で鯉が飼われたと思われる。また、金魚の値段は一五尾で五二四文であることを、参考としてつけ加えておく(阿木・青野村鷹見隆夫家文書)。