家の前の庭(作業場)を充分にとった、間口の広い切妻の家々は、ともすれば 近世の 農民がそのまま住んでいるような錯覚にもとらわれるがさにあらず、近世の農民がどのような家に住んでいたのか、寛永二〇年(一六四三)の阿木村検地帳から間口×奥行の居屋敷の大きさを表にしてみた。
この検地帳に記載されている戸数六七戸の平均坪数は一二・六坪余であるが、Ⅳ-9表の中から次の二人を比較すると、
・新蔵=三×八(坪)=一町五反六畝一五歩 一六石九斗三合余
・市右衛門=八×四(坪)=五反一畝二三歩 五石六斗五升二合
とあり、反別、石高で大きな違いが見られるが、新蔵の居屋敷坪数二四坪、市右衛門の居屋敷は三二坪と村内で最も広い。これは、反別、石高に関係なく家格の違いによるものである。いちばん小規模の家は畳九枚分の四・五坪で反別一反三畝、高一石一升一合の清八の家と、宗左衛門の小作人の家である。経済力のあるなしにかかわらず、本百姓・水呑百姓・小作人の身分の差や家格により居宅にも差ができ、「……家作之儀 分相応に可仕……(遠山家百姓衣類定書)」とは、このことを言っているのである。
Ⅳ-9 阿木村検地帳にみる農家の大きさ 寛永20年(1643)
元禄六年(一六九三)九月、山村甚兵衛の知行所内に幕府の倹約の触が布せられるが、それによると「屋作等猶(なお)以て軽く仕り新規之造作少分之儀候ても其所え御代官 御給人(地頭)へ相断り差図仕りべく 但 宿並は格別 少にも目出(立)候儀一切仕間敷候」と、家は小さく目立たぬようにと触には書かれている。新田村と本郷との違いはあるが、元禄七年(一六九四)当村家数改覚では、阿木村広岡新田五六戸の平均数は約九・八坪であり、一・三坪から九坪までの家が二六戸もある。実に目立たない家であった。
文久元年(一八六一)和宮下向中津川宿々割図から、中津川宿内の全戸数と中山道沿いの駒場村三六戸の坪平均の割合をグラフにしたが、駒場村では一一から二〇坪の家が四四%をしめているのに、中津川宿では一九%と割合が低く、七九%が二一から三〇坪の家である。駒場村には一から一〇坪の割合が一九%であるのに、中津川宿では二%の低率であり、「宿並は格別」の意味がわかる(Ⅳ-10表)。
Ⅳ-10 中津川宿と駒場村の屋敷坪数の割合 文久元年(1861)
これらのことを考えると、農家は一部の家を除き決して大きくなかった。畳を敷くことは及び難いことであり、前出の明和元年(一七六四)岩村領内の薄縁の使用禁止は「薄縁一枚は勝手次第」「目上の者、来客の場合は薄縁を使用してもよい」と、訂正されたが、その使用さえままならず莚が多く使われた。
養蚕が盛んになり蚕を室内で飼うため、かわらを載せた大きな家が建てられるようになったのは、建築用材が手に入り易くなった維新後のことである。
分限による普請の制限や許可制のことは度々ふれてきたが、中野方村の「諸格合之覚」で苗木領の場合を見ると「本百姓 水呑 脇屋 作人家普請 村方より長横 屋敷之小名 新木造りか又は古道具加え造りか 右家調べ其侭造りか申出候間 吟味之上願書御代官様エ差上ケ被仰付候後 普請仕 出来之分……(中略)……其後出来御見分被仰付候節 御出役様エ味書差上ケ申候」と、階層による家作のちがい、大きさ(間口・奥行)、新築か修繕かなどを村方で調査の上、願書を代官へ提出し許可が下りてから普請にかかり、完成したならば出役の者の見分を受け、請書を提出するようにと、普請の手続きを定めている。
普請の材料である材木や萱をどこから手に入れれるかを、岩村領阿木・飯沼両村の元禄一六年(一七〇三)の差出帳から見ると、
阿木村
・「百姓屋作 材木申請け山は阿木山の内」と、村の持林二〇四か所を書上げている。広岡では百姓持林四五か所[明治五年明細帳山林五四か所]
・萱刈場は、前山-龍泉寺-前沢山
広岡は、龍泉寺道上下-阿木村の内川上山
飯沼村 ・「百姓屋之節 飯沼村御山之内 こいたわよりほこら沢谷迠の内材木申請候 上道よりハ自分ニ而取来候」とあり、自分林五六か所をかぞえる。
・萱刈場は、前山-前沢山-木曽境山となっており、村境を接するところでは紛争が絶えなかった。
これらの材料は、村の持林だから、自分の山だからと言って自由に伐り出すことはできなかったと思われるが、各大名が同じような規定で山林行政をやっていたかは分からない。
尾張領茄子川村の材木等の伐り出しの場合は、茄子川にあった尾張徳川家の白木改番所に願書を提出しており、幕末の例であるが全文をあげるとしよう。
乍恐奉願上候御事 一 松八分板 長六尺 弐拾間 一 同五分板 長六尺 弐拾間 一 同引落し 長六尺 弐拾丁 右は去丑年惣山にて元切御願申上候木品 右之通出来仕候間 何卒御見分被成下置 御免被仰付候ハハ重々有難奉存候 右木品を以居宅繕ひ仕度幷たんす三本 水ながし 仕立仕度候間 何卒願え通り被 仰付被下候様偏ニ奉願上候 以上 慶応二年 願主 佐助 庄屋 篠原長八郎 茄子川 御番所 |
この願書から分かることは元伐りのときも願書を出し、製品ができた段階で見分を要請している。また松板を家屋の修繕とタンス三本、それに水流しに使用することを明記し、他の願書も同じであるが必ず庄屋が名印し茄子川白木改番所へ提出している。この他には自分の持山より杉を伐り桶木にすることや[慶応二年 一八六六]栗三八本[三尺回り]を村方入会山にて屋根の葺板として伐り出すことを八人が願い出ており[元治元年 一八六四]また、檜二〇本、松三〇本、栗一〇本、杉二本を安吉が茂十より購入するための許可を願っている。
このように住居を普請するについては、材木は持山の入会山で伐木するが、茄子川村の例で見られるように、尾張領内では許可を必要としたし、他の大名領内でも野放しの状態ではなく何らかの規制があったと考えられ、その上に普請をするのに許可を要し完成の段階で見分もあった。許可制と見分については苗木領の例をあげたが、他領でも伐木と同じように何らかの措置をとっていたに違いない。
中津川市には近世の農家が残存せず、古い形を残していても何らかの改造が加えられ、当時そのままの姿ではない。昭和四九年(一九七四)に調査した阿木地区広岡の真田家が江戸時代の様相を色濃く残していたが、これとても新築した家屋に家族が移住しとり壊す寸前であった。
真田家はⅣ-11図でも分かるように、一四畳分のいろりのある板の間と農作業をしたのであろう広い土間、それに馬屋がこの家の大半を占めている。大戸は天井へつり上げられるようになっており、馬の出入りが容易にできる工夫がなされ、小便所も馬屋から汚物も溜るようになっていた。八畳間の床の間、押入れ、仏壇を格納する空間は後からの造作とも考えられ、物置の部分も建増しされたと思われる。調査当時も風呂、流しとカマドの位置は不明であった。また、屋根を支える表側の一八本の柱はこの平面図では省略した。
Ⅳ-11 阿木村広岡 真田家平面図