「八月六日ヨリ木ヲ切り始めてうなはし免(手斧始め)致候 十一月廿五日 六日 七日の三日ニ家立て申候 十二月十八日家わ(渡)たり致し候」
これは帳面に書かれた前文であるが、木を伐り始めてから家わたり迄の総延人足一〇五一人 総入金一三両と銀一二匁である。この普請にどのような役割があったかはⅣ-12表を見られたい。
Ⅳ-12 与兵衛家立請請人足表
計算の方法が分からないことと、心づもりの記帳であることで、当時の帳面は帳尻が合わないことのほうが多い。前表との差は一二五人あり、これは帳落ちであろう。総延人足を出した段階での杣・木挽き・造作大工は五三一人となる。この中へ屋根葺師七〇人を入れると職人は六〇一人となり、四五〇人がいろいろな工事にたずさわっていることになる。なお、岩村より左官の金重が壁の上ぬりに来ているが人工は分らない。次に賃銭などの諸費用を書いて見よう。
釘代、板木伐の材料費などや賃金の諸経費はⅣ-13表の通りであるが、米二〇俵余は総計の一三両と一二匁に含まれず、計算外となっている。職人の総人工六〇一人に対して四五〇人が賃金の支払いを受けていないが、これは手伝い人足と見るべきで「結」の形になっており手間を返さなければならなかった。また、荒壁は手伝いの人達が塗り、上塗りを左官がやるのが当時としては普通のことであった。
Ⅳ-13 立普請にかかった諸経費 文化14年(1817)
「当年世の中よし 米相場金壱両ニ付 石弐斗六升かへ 酒壱升代七拾八文致候 今年てり(照り)かち也 冬分ニても雪ふらず阿たたかニ御座候」
と、この年は普請には条件のよい年であったようである。
家が新築された六年後の文政六年(一八二三)に、大工七六人工、杣・木挽五〇人工、信州高遠の石工三六人工で入用米金八両と五俵で蔵普請を行っている。また、四〇年後の安政四年(一八五七)から翌年にかけ屋根の葺替えが行われるが、屋根葺替帳によりその経過をたどると、一〇月一三日に萱山の口が明けると、萱刈り人足として弥平他七人を頼み家よりの二人と共に一〇人、翌一四日には三人の人足を頼み五人で二日間に三三駄の萱を刈っている。
政右衛門の跡取りからは貸し萱四駄の返却と八束の萱を借り受取り、八屋砥の彦兵衛にも買い萱を借りている。
買い萱として、次年より四二束、代金二匁ト銭三三〇文、かいづやから萱一〇駄、金一分は弥左衛門に渡している。
また、見舞として一九人より二〇駄と五束の萱が寄せられ、これらの萱は合わせて八四駄が集められた。
翌年二月二六日から四日間にわたり屋根葺きが行われ、手伝人足延三〇人、野内の屋根葺師一〇人で延三三人が参加した。葺師一人に付き銀二匁、合計金一両一朱ト銭二四六文が支払われている。
また、見舞繩として一二人から六束六把が持ち寄せられている。
平面図を残して姿を消した真田家も、萱の貸し借り、それに見舞萱や見舞繩、手伝い人足と村人たちや近親者の協力がなければ、昭和四九年まで残った家は建築できなかったのである。
ここで、文化一四年(一八一七)与兵衛家普請に参加した職人を除く人足をⅣ-14表にまとめた。元木伐り、小屋掛け、萱出し、地形などの作業をする村人たちの姿が目に見えるようだ。また、この表から、材料の伐出し、普請が済むまで生活する小屋造りから、土台作りに建前の作業と、普請の進行過程と仕事の分担を知ることができる。
Ⅳ-14 元木伐りから家渡りまでの手伝い人足
家わたりは一二月一八日に行われたが、壁ぬり作業は年を越した文政元年(一八一八)三月に仕上げがなされた。
このような相互扶助の関係は農作業や冠婚葬祭などにも見られ、この地方では「つるべ」と呼んでいる(広岡・鷹見家文書)。