農作物

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天明三年(一七八三)の農作業の様子を飯沼村・藤四郎(宮地)日記より抜き出し、それに、前後数か年の日記より農作業の部分を補足し農事暦をつくった(Ⅳ-15表)。

Ⅳ-15 天明3年 飯沼村農事暦 (宮地日記より)

 この農事暦に記載のない農作物名も文中にでてくるが、これは飯沼村の明和期(一七六四 一七七一)から天明期(一七八一 一七八八)の農産物を書き上げたものである。これらは、この地方に共通して作られたものと考えられる。
 農事暦でも分かるように、当時、飯沼村では裏作に麦を栽培していた。どこまでさかのぼるかは確かな史料がないので分からないが、すでに、二毛作が定着していたことが分かる。明和三年(一七六六)五月に大麦が不成熟なため、「……いろみ方悪敷ニ付 十九日と二日延しふれ出し申候」と庄屋より大麦刈りの触が出ている。また、明和四年(一七六七)三月には「うどんねり申候」とあり、大麦・小麦とも作られていたことが分かる。度々「うどん練り」の記事が日記に見られるのは、慶事・仏事や客の接待だけに使われ、日常的に食べられるほど小麦の生産は多くなかったと思われる。
 野菜として人参・ごぼう・大根・茄子が作られ、四月いも植え、一〇月いも起しがあるが、成育期間から考えると馬鈴薯ではなく里芋・長芋・甘藷が思いあたるが、植えこみの時期から推察すると里芋の可能性が強い。この他に「兵右衛門殿方江かぼちゃ喰いニ参り候[明和二年]」と試食かどうかは判断しがたいが、わざわざかぼちゃを食べに出かけており、ここでは珍しい野菜と見受けられた。
 穀物は米麦のほかに、稗・黍・蕎麦・大豆がつくられている。「あぜ物」と呼ばれていた大豆の他は「丸山ニきび蒔申候[安永元年]」とあるように、黍は条件の悪い場所でつくられ、野菜は自給が目的で、おそらく換金するほど収量はなかったと思われる。
 織物の原料となる植物は、麻のほか綿[安永八年]も栽培された。また養蚕は明和四年(一七六七)六月六日
 「兵右衛門殿たのみ蚕やとい申候」、七日「権平 広岡へ桑伐りニ参り申候」、一二日「さなぎかき申候」
 とあり、寛政五年(一七九三)五月二三日には、おゆう(人名)が糸引きをしたことが書かれ、
 「……当年は殊之外出来よく御座候」
 とあるが、他の年には養蚕の記事が残されていないので、藤四郎家では継続して蚕を飼ったかどうかは不明である。春にはぜんまいやよもぎなどの山菜、秋には栗や茸などの自然の恵みを受けたことが、どの年の日記にも必ず記載され、これら野山のものも大切に扱われたことがうかがわれる。明和七年(一七七〇)八月八日の藤四郎家の入山での栗拾いは、下男下女を含め六人にて一斗八升を拾い、一五日には八人で行っている。よもぎ摘みもひと山越えて川上まで出かけている。
 干草刈りや刈敷[厩屋に敷き肥料とする]にする木草刈りも、肥料を得るためにおろそかにしてはならない仕事であった。農事暦にも草刈りの時期は簡単に記述したが、寛政七年(一七九五)・九年(一七九七)の例を藤四郎日記から見ると、
 
 寛政七年(一七九五)五月九日
 「……干草山口明 半げの日より刈筈ニ付村方江申渡し置 大野村(枝村)江も申遣 候」
 寛政九年(一七九七)五月六日
 「来十日中尾山刈 十一日十二日青山刈 十三日十四日田平(たひら)刈 十五日上山口明」
 「田うへ定之事
   うへ仕舞中過六日ニ仕舞
  笹山口明半げ迄一切刈申間敷事 半げニ 見合明可申候」
 
 この様に寛政七年には干草山が、同九年には笹山が半夏生[夏至のあと一一日目]まで草刈りを禁じられ、草山ごとに期日も指定された。享和三年(一八〇三)には「村廻り壱人ニ付弐百文ツツ 弐人中尾山 上山ニ……」とあり、中尾山・上山の両入山に番人が置かれ報酬が支払われた。
 実際に草山の口明けを犯した例を、茄子川村久左衛門(藤井)日記(市史中巻別編・村の記録)から見ると、慶応二年(一八六六)の三月二七日と四月一日に芝草刈りが不締りなので、庄屋・町代が山廻りをしており、四月一二日には新吉の女房ら五人、一三日には孫八ら五人が、山番の村役人に見つかり過料をとられている。このように、どこの村でも入山の口明け前は、勝手に草山へ踏み入り草を刈ることはできなかった。
 草山と同じように、灌漑用水も村の管理下に置かれた。そのため、寛政九年の藤四郎日記には「うえ仕舞中過六日ニ仕舞」と書かれ、享和三年には「中過五日目仕舞可申候」と、田植えの終わる日を村が指示している。これは、用水の上流、下流の水田に、不公平なく水を分配するために取られた必要な措置と考えられ、また、田植えの終わり日を阿木村・飯沼村など岩村領内では、代官所に報告しなければならず「御注進之覚」(市史中巻別編・村の生活)が残されている。
 八月の数日間を費し「灰焼き」を行なっているが、肥料にする「灰」を作ったという説と、現在はすたれたが、まれに見ることができる「灰炭」を焼いたと言う説の、二論に分かれ結論づけられてはいない。
 また、萱刈りは自家の屋根を葺くほかに、他家の屋根葺きに融通したり、明和四年(一七六七)一〇月には御用萱として萱一〇二〇束を領主に納めている。この他に渋柿から「渋」をとることも毎年やらなければならなかった。
 農事暦の下段には年中行事を書き入れたが、この日々は「村中遊申候」と日記に書かれている休日であった。田植え前の田ごしらえの後には「春田休み」があり、田植え後には「業休み[農休み]」が必ずあった。田植えや稲刈りにかかる節句は、取越[先送りにすること]して休日になり、これらは公休日であり、この日に働く者は、村の定めにより罰せられたのである。