この種子当覚には品種と数量、それに七枚の苗代と田植えする田の小字が書かれているが、長期間にわたって「種子当」が記録されているのに田の面積が記入されていないし、早生種・中生種・晩生種の区別が分からないのが残念である。
この年の種当ては、餅を含めて一三品種が播かれており、このように多品種の傾向は長年続くが、これは気候に左右され易い当時の稲作りにおいて、被害を最小限度に止めようとする安全策であり、耐寒・多収穫の品種を選びだそうとする農民の知恵でもあった。
寛延三年(一七五〇)から安永三年(一七七四)までの二四年間に「種子当」された品種は、
・地名のついたもの 三七品種
・人名のついたもの 二四品種
・色や形からの名前のもの 一六品種
・其の他のもの 一一品種
と八八品種に及ぶが、これは
本利平次――赤利平次――白利平次――黒利平次――利平次撰り出し
と、利平次と言う品種に芒やモミの色をつけ区別しているが、他品種にもこのような例が見られ種子当の品種数が多くなっている。
また、「野井撰りだし」-「野井撰り揃い」のように野井村[恵那市三郷町]より移入した多数の籾の中より粒よりなものを選びだし、更に良い籾を揃えた種籾が「撰り揃い」なのであるが、同一品種が長期間「種子当」されることは少なく、苗代に播かれる品種の移り変わりの激しさは、よりよい種籾を得ようとする農民の試行錯誤にほかならない。
「閏二月種子当覚」では一三品種の籾が播かれているが、天保元年(一八三〇)に六品種、安政二年(一八五五)に四品種と種籾の品種と播かれる量は減少して行くが、前年の作況により変化し、凶作の翌年は種子当の品種数は籾の量と共に増加の傾向を示す。
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無芒の品種は、安政二年(一八五五)の八屋砥(はちやど)坊主が初めてである。慶応三年(一八六七)には、播かれた籾の七品種中三品種が無芒であるが、翌年にはもう姿を消しており、再び播かれるのは明治三年(一八七〇)からで、「嶋坊主」「中野坊主」「出来坊主」の無芒品種がつくられ、比率は五対四と無芒の品種が多くなっている。「種子当」が無芒の品種に移り変わるのは、何千年という米づくりの歴史から見れば、わずかな時間だが、延享三年(一七四六)から無芒種が定着する明治三年(一八七〇)まで、途中に資料のない五一年間の空白を勘定に入れても、一二五年の年月がたっている。多くの人々と幾世代もが農業に取り組む中で、新しい品種が生みだされたのである。このことから考えると、「農民が種籾を選び苗代に播く」ことは、一年の米づくりから見ると数日間の仕事にすぎないが、その一粒一粒の種籾には、気の遠くなるような時間がかかっているのである。