Ⅳ-16 田植後の稲の生育日数頻度
これによると、田植後の稲の生育日数は一〇一日から一一八日の一八日間にわたっており、最も頻度の高い日数は一一〇日である。
また、一一〇日は中央値であり、一一〇日を中心にして前後三日ずつを加えた計七日間の頻度は、二一回となって全体の六三%に当たる。すなわち、一〇七日から一一三日の七日間は、当時の田植後の生育に要する一般的な日数と考えることができる。
田植後の生育日数の少ない六か年については「市史中巻別編」の年表では、安政三年(一八五六)七月に大雨があったという記録があるだけで、他には特に取りたてるほどの事項はない。逆に生育日数の多い六か年について同年表を見ると、文政八(一八二五)、天保四(一八三三)、慶応元(一八六五)、同二年(一八六六)の四か年について天候不順の内容を示す記録がある。この四か年以外の凶作・不作の年は文政一一(一八二八)、天保三(一八三二)、同七年(一八三六)であるが、田植後の生育日数は三か年いずれも平均的な日数に含まれている。
これらのことから、稲の生育期間中の天候が順調な年は、田植後の生育日数が平均的かそれ以下であり、天候が不順な年は凶作・不作となって、田植後の生育日数も多い傾向にあることがわかる(Ⅳ-17表)。また後述のように、田植相済(あいすみ)の日は年による違いが極めて少ないことから、田植後の生育日数の増加は、稲刈以後の仕事が後へずれて遅れていることを表わしている。
Ⅳ-17 凶作・不作の年の七、八月の天気
同年表で凶作・不作の記録が見られる年の田植後の生育期間中の天気を記号で示したのがⅣ-18表である。(この表の月日は旧暦を現行暦に修正した)その内、七・八月の天気の状態を分けてみると次のようになる。
Ⅳ-18 凶作・不作の年の稲の生育期間の天気 (田植後)
この表を見ると、天保三年(一八三二)の全日晴れ、天保四年(一八三三)の曇り、天保七年(一八三六)の降雨日はそれぞれの数値が著しい。他の年も降雨日が多く、生育期における日照時間の不足が凶作・不作の原因であることをはっきり示している。こういった中で、天保三年の凶作の原因が旱魃であることは特異である。
低温の影響を受けやすい時期は、幼穂形成期・減数分裂期・出穂・開花期で、それぞれ八月上旬、中旬、下旬頃となっている。中でも冷害に最も弱いのは、減数分裂期で、この時期(八月中旬頃)に平均気温が五日間以上二〇度前後になれば、多くの品種は不稔障害をうけるということである。
Ⅳ-19表のグラフが示すように、凶作・不作の年は晴れた日の割合が低く、田植後の生育日数も多いことがわかる。凶作・不作の六か年の内、四か年が「Ⅳ」に含まれる。一方、豊作と言われる天保五年(一八三四)、嘉永四年(一八五一)、安政三年(一八五六)はいずれもグラフ「Ⅰ」に含まれ、晴れた日の割合が高く、田植後の生育日数も少なめである。
Ⅳ-19 7、8月の晴れた日の割合と田植後の育生日数
次に、これらの史料から前述の凶作・不作の六か年について、市史中巻別編の年表に記されている文章(「 」内のみ原文のまま、本文の年は現行暦)の内容を読みとる。
(1) 文政一一年 「夏中雨降り世の中大悪なり」(広岡・鷹見家)
七月に入って五日雨降り続き、八月になっても上旬は一〇日間雨又は曇りで、中旬も五日間雨が降り続く。八月下旬から二百十日にかけて、やっと一〇日間晴れてもちなおすも出穂後間もなく六日間雨が降り続く。
(2) 天保三年 「六月九日より七月一九日迠 毎日晴天続く 砂上は灰のように乾き草木枯れる 七月一九日 二〇日 三三日少し雨ふる」(広岡・鷹見家)
七、八月降雨日数一五日間のうち八日分は七月上旬にかためて降り続き、七月一六日から八月一六日まで一か月殆ど雨が降らなかった。しかも、八月五日から九日間を「大晴天」と記している。これは真夏に当たり、暑さと水不足による苦しさがしのばれる。雨の記号を見ると晴天が続く前七日間が連続して雨の日になっており、晴天が続くのはその反覆と考えられる。一か月の晴天続きの内八月四日に夜少し雨が降ったほかは八月一五日夜少し、同月一七日、一八日も少しと記されている。その後また八日間も晴天が続き、雨らしい雨は、やっと八月三〇日になってからで、翌日は雨の印の横に「大」と書かれている。
(3) 天保四年 「草木の花 茶 開きおそし 苗大キに少キ 麦作ハ五分 五月より八月迠天気三分之晴 四分のくもり 三分の雨ふり 稲出穂一五日程おくれ 畑作ハ九分位 田作ハ当村で四分也」
天気を見ると冬「志み大あり」「シミツヨシ」「大キ寒シ」「冷」と言う字が目につく。出穂の日は記録されてなく不明であるが、天気の日数を見ると曇りの日が異常に多く、これが日照時間の不足をもたらし、稲の生育に影響を及ぼしていることは容易に推測できる。特に六月下旬から八月中旬にかけて曇りが多く、晴天が二日以上続くのは八月中で八月二一日から五日間だけである。
(4) 天保七年 「六月 七月雨多く冷気稲出穂半月おくれる」(広岡・鷹見家)
「……寒冷な気候にて田植に重ね着をする 八月早霜八月末にうす氷がはる……」(太田町・吉村家)
夏の雨降りの日が多く、七月、八月の降雨日数は四一日で六六%になる。従って全日晴れの日は一一日で一八%にすぎない。七、八月で晴天が二日続いた日は二回しかなく、特に八月一一日から七日間は終日雨が降り続いている。
重ね着をする程寒かった田植の時期は今の六月二〇日前後であり、うす氷がはった八月末日は現行暦の一〇月九日に当る。
(5) 慶応元年 「閏五月一七日大雨により洪水 川上川筋 阿木村川筋、木実村川筋出水のため田地流れる」(広岡・鷹見家)
年表には洪水の記録だけであるが、天気を見ると七月の晴天が少なく、全日晴れは僅か二日間である。七月は曇りか又は曇りから雨になる日が多い。七、八月中晴天の二〇日の内一八日が八月であり、その内一三日は八月下旬に集中していて、上旬から中間にかけてはやはり曇りか雨が多い。
(6) 慶応二年 「五月一五日から二〇日迠 気候不順 (五月)恵郡山に降雪 七月一四日より八月朔日迄冷夏 丑寅(北東)の風 度々吹く」
七月に入って曇りと雨の日が多く、全日晴れは七日間である。特に七月三日から二七日までで全日晴れの日は一日しかない。文中の七月一四日及び八月朔日は現行暦の八月二三日と九月九日に当たる。風の向きは地形の影響を大きく受け、地点によって異なるが、「丑寅(北東)の風」と特記されている根拠は、夏季における通常の風向きと違うことを意味し、冷涼な気流の吹き込みを指すものと考えられる。