農作業に関する考察

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この記録は文政五年から明治七年まで五三年にわたっているものの、途中記入してない年、所々抜けている月・日があって各項目の比較考察においても、比較する回(年)数は一様でない。しかし、このような条件の中で、苗代拵(こしらえ)・籾(もみ)種まき・田おこし・田すき・麦刈始め・田植相済・稲刈始め・稲刈済・麦まき相済・稲こきすみの九項目について考察が可能である。以下、現行暦に修正した月日を用いた。
(1) 苗代拵
 一二回の記録がある。その内最も多く行われた日は四月二二日で六回あり、四月二二日の前後各一日を加えると合計一〇回となり大半を占める。最も早いのが天保五年(一八三四)で四月一二日である。最も多い二二日より一〇日早い。最も遅い日は天保七年(一八三六)四月二五日で、最も多い四月二二日より遅れること三日である。一例を除くと四月二一日から二五日までの五日間位が苗代拵をする時期であったといえる。

Ⅳ-20 苗代拵の月日と回数

(2) 籾種まき
 三三回の記録がある。その内最も多いのは四月二三日で一〇回あり、四月二三日の前後各二日ずつを加えると合計二七回でおよそ八〇%になる。表を見ると四月二〇日から二六日まで数字が連続し固まっており、籾種まきの適期であったといえる。特に早い年はない。遅い年は嘉永元年(一八四八)四月三〇日で、最も多い四月二三日より七日間の遅れがあるが、根拠となる天気の変化は見当たらない。
 苗代拵から籾種まき迄は翌日か翌々日には行われているが、天保五年は苗代拵を四月一二日(最も多い四月二二日より一〇日早い)に行っているのに、籾種まきは逆に最も多く行われている日より七日も遅く、苗代拵から籾種まきまで一一日も経っている。

Ⅳ-21 籾種まきの月日と回数

(3) 田おこし・田すき
 六回の記録がある。田おこし・田すきの行われた時期は四月二九日から五月三日までの五日に集中している。苗代を作り 籾種をまいてから、田おこし・田すきと続く農作業である。

Ⅳ-23 田おこし・田すきの月日と回数

(4) 麦刈始め
 天保九年(一八三八)まで断続的に八回記されているが、同一〇年以降は全く記録のない項目である。Ⅳ-24表によると、麦刈始めは六月一五日から一八日に集まっており、この間が平年の麦刈始めと考えることができる。七月三日とあるのは文政八年である。この年は天気の記録がなく主な農作業を行った月日だけが記録されていて、田の草取始めの翌日に「小麦刈」とあるので、畑作の小麦と思われる。

Ⅳ-24 麦刈始めの月日と回数

(5) 田植相済
 四二回の記録がある。農作業中この記録が最も多いのは、天気を書き記した主な目的が稲の作業であり、例年の期日を目安にしながら、その年々の天気を考えて作業日を決めていく重要な基礎資料になり、植える時期の決定がその後の稲の生育に影響を及ぼし、田植後の天気が次の作業を決める大切な条件になるからである。田植相済の最も回数の多い日は六月二〇日、二一日で共に一〇回ずつである。六月一八日から二四日までの七日間に連続して全四二回が含まれてしまい、最も期日が集中した農作業である(Ⅳ-25表)。

Ⅳ-25 田植相済の月日と回数

 最も早い年は明治元年(一八六八)六月一八日、最も遅い年は天保元年(一八三〇)、安政四年(一八五七)で六月二四日である。天保元年の記録によると冬から春先にかけて「しみ大きつよし」(八日間)、「しみ大き有」(六日間)、「此間霜度々ふり しみ有」(九日間)、「朝夕さむし」(九日間)、「しみ大有」(二日間)と度々記されており、五月下旬になっても「霜少しふり」「霜大きふり志み有」と記してある。田植相済の三日前にも「朝大き寒」とあり、天保元年は冬から春過ぎまでしみが強く寒い年であったことが田植を遅らせた原因となっている(Ⅳ-22表)。
 同じようにしみが強いと度々記されている文政一一年(一八二八)、天保三年(一八三二)、天保四年(一八三三)も天保元年と同様例年に比べ遅れている。田植に重ね着をする程寒冷な気候であった天保七年の田植相済は六月二一日で平均的な期日になっている(Ⅳ-22表)。

Ⅳ-22 農作業と田植相済後の稲の生育期間(日) 文政5~明治4

(6) 稲刈始め
 三六回の記録がある。稲刈始めの日はばらつきが大きく一〇月一日から一八日までの一八日間にわたっている。最も回数の多い日は一〇月八日、九日、一二日、一三日で共に四回ずつである。一〇月八日から一三日までの六日間で六〇%を占め、この間が通常の年の稲刈始めの期間と考えられる(Ⅳ-26表)。
 最も早い年は弘化三年一〇月一日で、この年は生育日数も一番少なくなっている。最も遅いのは天保四年一〇月一八日で生育日数も一番多い年になっている。天保四年は全国凶作の年で、広岡でも「天気三分之晴 四分くもり 三分雨」
 となっていて、天気の影響を大きく受けている年である。

Ⅳ-26 稲刈始めの月日と回数

(7) 稲刈済
 記録は一四回である。Ⅳ-27表でわかるように、一八日間にわたり断続的にちらばりの大きい農作業である。春の農作業が比較的短期間に集中しているのに対し、秋の農作業は夏の天気に左右されて、年によって期日の早い遅いがはっきりしている。最も早く済んだ年は嘉永二年一〇月一九日、最も遅い年は天保元年一一月五日で、両年共稲刈始めの早い遅いの影響をそのまま受けている。

Ⅳ-27 稲刈済の月日と回数

 稲刈が始まって終わるまでの期間に何か特徴があるだろうか。最も短い期間は一八日間で、最も長いのは二三日間、その差は五日間である。一八日間で刈り終えているのは嘉永二年で、この年は稲刈にかかるのも早かった(Ⅳ-28表)。

Ⅳ-28 稲刈にかかる日数と回数

 稲刈始めと、稲刈済の両作業共記入してある年は一二回あり、この期間中いずれの年も一日ないし六日の雨降りがあって、稲刈の期間の長短に影響を及ぼしている。記録にある中では嘉永元年と文久二年がⅣ-29表のように天気がやや不順であった。

Ⅳ-29 稲刈期間中の天気

(8) 麦まき相済
 記録は三六回ある。多く記録されているのは稲の場合と同様、天気との関係で播種期の決定・それ以後の作業日程を考えるために、記録が必要とされたのであろう。また、麦が稲に次ぐ大切な作物であったことを示すものである。Ⅳ-30表によると、最も回数の多い日は一〇月二〇日から二三日までの四日間で全体のほぼ半分を占めている。つまり、平年の麦まきの終るのが二〇日から二三日と考えることができる。また、表を見ると、二、三日おいた二七日と二八日が回数の多い日になっていて、この二日間で全体の二〇%弱を占めている。(回数の合計が三七回になっているのは、安政四年が二二日、二三日と二日間記入してあることによる。)

Ⅳ-30 麦まき相済の月日と回数

 麦まき相済と稲刈済の両方記入してある年は一一回あり、総て稲刈の途中で麦まきをしいる。麦まきが済むのは稲刈相済の五日から九日前までが多いが、嘉永元年(一八四八)、同二年(一八四九)、文久元年(一八六一)は二日前である(Ⅳ-31表)。

Ⅳ-31 麦まき相済稲刈済間の日数

(9) 稲こきすみ
 稲こきすみは稲こきじまい、稲こき相済の三通りの言い方で記入されており、三六回の記録がある。最も早いのが嘉永六年(一八五三)一〇月二八日で、「この年豊作なり(広岡・鷹見家)」と中巻別編年表にある。最も遅いのが天保七年(一八三六)一一月二三日で、最も早い日との違いは二六日あり全農作業中で最も期間の差の著しいものである。Ⅳ-32表によると一〇月三〇日から一一月一一日までは一三日間連続しており、三一回が含まれている。これに比べ一一月一六日は天保三年(一八三二)、天保四年(一八三三)、同月二三日は天保七年で著しく遅いといえる。この三か年はいずれも凶作・不作の年である。
 全農作業中、田植の時期は年による違いが最も少なく、稲刈始め、稲こきすみの時期は、その夏の天気によって著しい違いがある。天気の記録で、晴後雨の雨が午後からか、夕立か、夜間かということが不明であるため、稲に影響する日照時間・積算温度等の点で、充分な考察ができないところもある。

Ⅳ-32 稲こきすみの月日と回数