天明の凶作

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岩村領阿木村広岡新田は天明七年(一七八七)一月一二日、前年の夏・秋作の違作により「喰物御座なく候 難儀仕候」と「飢人改め」を行い助扶持願いを岩村領主へ提出している。一六日に見分を受けるが「飢人改下帳」には合計六二名[男 一六名 女 四六名]と戸数二八戸を書き出している。
 安永六年(一七七七)、文化九年(一八一二)、嘉永三年(一八五〇)、安政六年(一八五九)の四か年平均の戸数が約七五戸となり、天明七年の推定戸数をこの平均にとると三割七分強の割合となる。「……親類等も御座候得共右同様之者ニて合力等得不仕候ニ付き飢ニ及ビ申候 何分袖乞ニても仕べく候得共 子供又ハ病身者ニて……」
 と、親類の助力もできないこと、病身の者と子供では乞食もできないから「飢扶持」を願うのであるが、これらの階層は無高一一戸を含む二石以下の高を持つ零細な農民である。飢人扶持を願う個人的な理由や稼ぎ、それに家族数や年令などはⅣ-34表を参照されたい。

Ⅳ-34 天明7年飢人扶持申請者数(阿木村広岡新田)

 「天明の飢饉」という場合、浅間山の大噴火や関東・奥羽地方で未曽有の餓死者を出した天明三年(一七八三)をいうが、天候不順の兆候は天明元年(一七八一)ころから始まっていた。
 岩村領飯沼村の藤四郎日記から天候の異常な部分を抜書きすると次の通りである。
◎天明元年(一七八一)
四月二二日、この日寒くあられ降る。六月二日から五日、七日と八日、一〇日から二〇日雨降り(五九%)七月の降雨日七五%と六・七月雨多し。一二月風邪流行する[四月改元閏五月日記は閏七月]。
◎天明二年(一七八二)
六月六日から一四日まで雨降り、一〇日大雨降る。七月九日大風吹く。七月一日から一六日まで晴天が続く。八月二一日大雨降る。一二月一四日大雪降る。
◎天明三年(一七八三)
一月二六日、二月二八・九日寒気強し、三月八日大風吹き雪降る。九日氷張り凍み強く一三日あられ降り、一四日雪降る。四月七日前山[中津川地内の前山とは違う]まで雪降り、一〇日あられ降る。六月一七日大風吹き、寒さ強く、あられ降り六寸ほど積る。二九日大風吹く。一二月六日から一〇日、一二日、雪降り[三月二一日籾まき・五月二一日田植え・七月七日浅間山噴火]
◎天明四年(一七八四)
一月一二日、閏一月二八日、二月一一日寒気強し、二月朔日大雪、三月一一日雪降る。五月二日、一九日、二五日大雨降り。六月一四日天候不順に付き、岩村領内天候回復祈願の祈禱の廻状来る[三月一日籾まき]。
◎天明五年(一七八五)
三月二〇日強風吹き寒気強く前山まで雪降る。五月二二日、二三日大雨降る。六月旱魃。八月二四日大風雨吹き荒れる[三月三日籾まき]。
 この地方では天明二年(一七八二)の北美濃、飛驒の飢饉、東濃凶作から阿木村広岡新田の「飢人改下帳」が残されている天明七年(一七八七)まで連続的に凶・不作に見舞われるが、これは全国的な異常気象であった。天明四年(一七八四)は豊作または七・八分作と小康を得た地方も全国にあったが、藤四郎日記で見る限りこの地域は不順な気候であり前年に続き寒冷で、その上、飯沼村では水害のため流失個所が復旧不可能となり永引(えいひけ)[年貢を永久に免除する]となった場所があった。このように六か年余りも続いた凶作の主原因は、日記の抜書にも見られる通り春夏の霖雨と、夏にも単物(ひとえもの)が着れなかった[天明三年]冷涼な気候であった。
 尾張領湯舟沢村の宗門帳[島田千尋家所蔵]は、天和三年(一六八三)から明治四年(一八七一)の一〇一冊が残存しているが、この宗門帳から一八世紀の湯舟沢村の人口の推移を見ると、正徳元年(一七一一)から享保一一年(一七二六)まではゆるやかな増加であるが、寛保元年(一七四一)から天明元年(一七八一)までの増加は急である。正徳元年(一七一一)から寛政二年(一七九〇)までの七九年間の人口増加は一・三五倍となっているが、享保一七年(一七三二)の凶作以後の一〇年間と天明飢饉後は、いずれもマイナス成長となっており、湯舟沢村の場合の人口増加の第一位が出生による増加であることから、享保・天明の凶作のため婚姻や出産などの抑制が人口増減に影響を与えていることが推察できる。湯舟沢村の人口の推移Ⅳ-35表でも分かるように限られた生産量しか得られない農民は、人口の増加を抑える事が生き延びる道でもあった。増収を考えあらゆる手段をつかい一生懸命労働に励んでも、当時の農業技術では気象の異常にはどうすることも出来なかった。

Ⅳ-35 一八世紀 湯舟沢村の人口の推移
(三田学会誌67巻五号1974年 鬼頭宏)

 農民が不・凶作の状態になっても支配者は年貢皆済を原則として農民に対処した。天明二年(一七八二)一一月二五日、岩村松平家郡方役所は飯沼村庄屋藤四郎らに免定を渡したとき御救米一二俵を下付しているが、翌年一月一九日には領村各村の村役人を全員、岩村町会所に呼出し年貢を皆納した定免[定率で年貢を納めさせる法]村の庄屋には酒代として南鐐銀一枚。組頭、百姓代には銭三〇〇文を褒賞金として与え、検見[毎年の実収高による年貢収納法]村共に、作扶持米を無利子三年賦[三年間に返済]で貸与している。また、年貢不納の検見村二か村、永田[恵那市長島町]大円寺[岩村町]の両村々役人は手錠をかけられ戸締め、定免村の東野村[恵那市]と阿木村の村役人は岩村町宿預けとなっている(飯沼・藤四郎日記)。
 天明四年(一七八四)閏一月、中津川宿村の在方である実戸(さんと)村は、中津川村庄屋九郎兵衛、宿問屋長右衛門らの奥書によると、
 「実戸村高三分の一を辰年[天明四年]より丑年までの一〇年間御救引き願い[乍恐奉願上候口上之覚]」を中津川代官所代官宮川弥五右衛門に提出している。願書は、
 「……去ル寅卯両年之凶作ニテ村中之者必至と行詰り……」
 と、天明二・三年の凶作を書き留め、高持百姓八人の困窮の様子も個々に取上げている。その中の久蔵は、
 「……追々困窮に付致シ方無之候ニ付 扣田地も借金之方引渡シ小作ニ罷成候……」
 と、借金により扣田地をてばなし小作になり、又助は、
 「……家財等売払い漸く御年貢相立て 宿ニハ老母妻子ヲ残シ置キ自身ハ奉公ニ罷出候……」
 と、年貢を納めるため家財を売払い、母、妻子を残し奉公に出るが、両者のように年貢を支払うため田畑を抵当に借金をしたり、家財などを処分することは珍しいことではなかった。
 岩村松平家は天明五年(一七八五)二月に他領の者の領内徘徊禁止と家中の仲間(ちゅうげん)奉公の者や女奉公人、萱屋根葺師の勤務時間の延長と賃金の抑制、それに野荒しを捕らえたときの処置を決めた触書を出している。天明七年(一七八七)の広岡新田の「飢人改下帳」では「……病身者ニテ袖乞(そでごい)も得不仕候」と、袖乞(乞食)も出来ないことが飢扶持を受ける理由となっている。天明五年(一七八五)の触書では、飢扶持が受けられなかった者か、前から袖乞をしていた者か不明ではあるが、
 「御領分之乞食ハ御免ニ候間 村々ニテ役人入念と吟味なされ庄屋之名印札急度渡シ……」
 と、庄屋の名印札(鑑札)が渡され、所属する村も分かる公認の袖乞であった。「……御領分之外之者は徘徊致シ間敷ク……」と、他領の者が領内に入ることを禁じた触書は、凶作の続いた(年表参照)寛政一一年(一七九九)七月に同じ内容で出されている。
 野荒しについては 各村ごとに田畑や道ばたに適当な場所を見出し、「戒(いましめ)棒杭」を立て、野荒しを見つけたら逃がさず捕え、棒にしばりつけ代官所へ注進するよう指示している。この時期に、この様な触書が布達されたのは、領内の者、領外の者を問わず「食物」を求めて浮浪する者や空腹を満たすため農作物を荒す者が、かなりの数にのぼったと考えられ、戒棒を立てて野荒しを取締り、名印札を持たせ領内徘徊する許可を与えているだけでは、飢人救済の抜本的な解決にはならなかった。なお生活に行詰り袖乞のため領外へ旅立つ者には、帳外れとならず村へ復帰できるために「往来一札[通行手形]」が渡され、旅行の理由は「巡礼のため」[天明八(一七八八)武儀郡長瀬村某三人 享和二(一八〇二)三河国仁木村女二人]と書かれ、他国人で行倒れたことも記録されている。
 飯沼村では天明四年(一七八四)一月六日に、忠兵衛家内六人、平八姪ひろ、友七方九郎右衛門の送籍状が出されているが、忠兵衛一家と二人に何のつながりも感じさせない彼等が、巡礼の旅に出た可能性が十分にある。
 野荒しは各村の五人組の監視にゆだね、袖乞は領民の情けにまかせた岩村松平家は、その他にどの様な対策をたてたかくわしい点は分からないが、天明四年(一七八四)閏正月二二日に飯沼村が提出した「飢人願い」の受理されるまでの経過を藤四郎日記によって追ってみたい。閏正月二二日飯沼村庄屋藤四郎は、飢人願いに組頭与吉を代官所へ差向けるが、代官所の臼井久吾は領内の大井宿助郷村々の代表が通例としている尾張家の宿駅に関係する役人宅への年頭の挨拶に名古屋へ行くのを取止めた届けを、藤四郎が未提出であることを理由に飢人願いを取り上げなかった。
 庄屋藤四郎をはじめ村役人、枝村大野の庄屋常吉が相談し、富田村[岩村町]庄屋を頼み翌二三日藤四郎と四名の村役人は富田村庄屋と同道し名古屋行き取止めの釈明と未報告を謝罪し「飢人願帳」を提出し帰村した。
 二四日、代官手代神田多平、下目付松井藤太の両名が飢人改めに来村する。二五日、両役人が見分を始めるが、一名が「願帳」より脱落しており神田多平と松井藤太に断わり帳面に入れてもらう。両役人は見分後の八ツ半[午後三時]に次の飢人改めの予定地に向けて出発している。飢扶持米の分量は不明であるが、飢扶持米は閏一月二七日と二月二日の二回に渡されており、安永五年(一七七六)の飢扶持米は男二合五勺、女二合、一〇才以下は一合宛が下付されている。また、作扶持米[農民が農作業のため領主より拝借する米]一五俵の貸与を願い出て一二俵借りるが、前年の一月には無利息三年返済で二一俵を作扶持米として借受けている。天明四年(一七八四)の岩村領内村々の作扶持米の要求は、四千俵にもなり、そのため家臣より米の買上げを行うが予想以上に集まらなかった。
 三月三日、飯沼村は寄合いを開き、役所から下げ渡された痢病除けの薬を配布し、松餅[松皮を主原料とする餅]のこしらえ方と、空地、荒地などへソバをまくことを申渡している。この他に飯沼村では、村役人は一か年役料なしで勤めることを相談し決め、また「……作扶持買入ニては得心無之ゆへ百姓ヲ以願候……」と、作扶持として米四〇俵、麦二〇俵、稗二〇俵を村方で購入する様に要求が出され、村役人は「……外ニ借入仕候共致候……」と、返答している。麦はこれより一〇日後に無料で渡されるが、米、稗に関してはどうなったか不明である。このように公的な扶持米の他に村が借財を負う結果となり、村の疲弊は領主の衰退をはやめ財政は悪くなる一方であった。