津留

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「村々穀物他所江出し候趣 追々風聞相聞候 先達テ被仰聞候通一切出申間敷候……」 これは天明三年(一七八三)一一月二〇日に岩村松平家が各村に穀物の移出を禁じた「触(ふれ)」の一部である。この「触」でも分かる様に、各大名は凶作や飢饉などに際し物資の移出を禁じ、特に農産物を確保するために厳重に監視したがこのことを「津留(つどめ)」と、言った。
 二三日には津留回りとして、岩村松平家の役人加藤安左衛門が来村し次の津留出役の者を伝えている。
 
    東野村
   安藤三右衛門    弥之右衛門(足軽)
    上村
   矢頭郷右衛門    横田又平(足軽)
    下村
   宇野権平      松井新藤太(足軽)
 
 上村・下村は三河筋と伊奈谷を、東野村は中山道への監視をしたのであろう。
 苗木遠山家は天明三年(一七八三)一二月五日の段階で蔵米、在(あり)米共に他領への販売を、
 
 「……たとえ五升 三升の小売共ニ 他所へは決て売払申間敷候……」
 
 と、松平家同様に他領への販売を一切停止した。領内の売買については「御構無之候」と、ゆるやかな通達であったが、一〇日には勘定方曽我清左衛門が領内の村々を回り「領内の売買にもその村の庄屋の名印のある書付けがなければ、米の売渡しが出来ないこと また、他領への出口にあたる村には米の移出の監視と取締りをし、違反者があれば取調べて届け出ることと、付知川、木曽川などの渡しの船頭は他領への米の売渡しを堅く差止める」と、口達している。触の訂正は予想以上に状況が悪かったものと考えられる。
 津留を行った翌四年(一七八四)一月に松平家は領内の郷蔵[この場合は年貢の一時的収納庫]にある千俵の米を三河の平坂(へいさか)湊へ一日二〇〇俵ずつ五日にわたり回送する。これは江戸へ回送するわけであるが、このことを津出しと言った。各村が作扶持米四千俵を要求し俸禄米の買上げの措置をしており、この津出米を以って充当すればいいのだが、農民が困窮していても岩村松平家の財政を優先して決してそうはしなかった。飯沼村が岩村領から作扶持米を天明三・四年の二年間に三三俵借り、村民が米四〇俵、麦二〇俵、稗二〇俵を村方で賄うことを要求したことを前に述べたが、この様な情況の中で米の取引があったことが「天明四年(一七八四)二月二日落合へ米一〇俵を払い 四月三日弥兵衛は米三俵を与吉に一俵を藤四郎に借り 合せて四俵を中津川へ遣す 五月二〇日阿木村平右衛門の頼みにより川上へ米三二俵を払う 六月二四日には平右衛門より三〇俵分の米切手を受取る この内の六俵は与四郎からの米である……」
 と、藤四郎日記に記録されている。
 飢扶持米や作扶持米での救済と津留による米穀の移出の禁止、それに大名家による江戸回米や藤四郎らによる他領への米の持出しと、江戸時代は矛盾した世の中であった。
 尾張徳川家は天明四年(一七八四)、木曽谷の窮状に対し飢扶持米三五俵を貸与し、飢饉の者一人に付き三升の米を御救米として施した(手賀野・岡本家文書)。それに木曽谷の窮民千人余を尾張の枇杷島川通堤の近辺に小屋をつくり、食糧を与えて川ざらいの人夫として使った(日本凶荒史考 有明書房)。妻籠宿覚書(南木曽町史資料編凶荒)に「午年[天明六年 一七八六]が凶作のため尾張から米六〇〇俵が繰り込む」とあり、尾張徳川家は木曽山の山林政策のため東美濃領内から大井米と称し米四〇〇俵を下げ渡していたが、この年は都合千俵の米が木曽へ繰り込んだ。隣接する幕領飛驒では、天明七年(一七八七)、夫食金として二回にわたり金一九三四両が翌年からの五か年賦で貸し与えられている(飛驒編年史要)。
 これらは幕府領と大々名である尾張家の凶荒対策の一部をあげたものであるが、前出の妻籠宿覚書には、
 
 「……この節谷中の者 わらび根、ところ、松の木の皮 その他のいろいろ成るもの給(た)べし餓死を相凌(しの)ぎ申候[天明三年]」
 
 と、あるように生きる道を、自分で考えるより外に術(て)はなく、どの救済措置も充分とは考えられない。天明四年(一七八四)の飯沼村では、凶作の翌年は食糧が払底し高値となり世情不安となるのに「乙五郎芝居隠れ仕り 大さわぎ」とか、祭礼には例年の通り花火を打上げており、農民たちの計り知れない活力を感じると共に、木曽谷や飛驒の山間寒冷地との違いを実感する。しかし、年平均気温の一・二度の違いで、この地方でも大凶作になることは必至であり、一万石から三万石までの中小大名に属する苗木・岩村両家は決して余裕がある経済の状態ではなく、分割支配された農民は自領を飢饉から守るため「津留」などの政治的につくられる食糧の不足のため、いつ飢餓の状態にさらされるかは予測できなかった。