当年すす(竹)に志祢んこと申て付候野麦 十年後 自年後とも色々ニ書候 古ニ有之由
とあり、また、次の様にも記るされている。
葯(ジネンゴ) | 練(同)実 | ||||
ジネンゴノアトノ竹の事也共ユウ | 本字也トゆう | ||||
本草網目ニ有ともゆう | |||||
自然粳の食し方として、
すずに付候志ねんこは 能々(よくよく)干し候て唐臼(からうす)にてかじ候得ハ小麦之様ニ成申候 それを粉にして成程ややらかに志めし、だんごに致候ハ小麦より能(よき)物也 かたく志めし候得ハ味悪敷御座候 やき米 こがし等にしてもよき物也
と、調理法も載っている。この年、飯沼村では一〇〇俵余の自然粳を収穫したと言う。この様に、安永六年(一七七七)の場合は凶作の翌々年に自然粳がすす竹に付いたが、五九年後の天保七年(一八三六)には、居笹、へいじく笹に自然粳が付いた。この年の秋作は、天明の凶作以来の大凶作となり、岩村領阿木村広岡新田では場所により、二五%から四〇%までの作柄となり、「自然粳の付いた年は凶作」の俗信と一致したのである。
広岡・今井家所蔵の「天保七申年凶作日記」によれば、居笹の実は半夏生[夏至から十一日目、七月二日ごろ]の頃が盛りとなり、へいじく笹は六月一九日に口明けとなっている。笹の実の採取できる期間は約三〇日と言われ、阿木村地内越沢へは隣接する飯沼村を始め、東野村・中野村・永田村・野井村[四か村共に恵那市]それに飯羽間村の岩村領内の村々の者たちが入(はい)り込んだ。山の口明けから五日間は阿木村が採り、次の五日間は、飯沼村と飯羽間村が、あとは採取を頼んだ順番に手札を渡している。
笹の実を採りに山に登る者は、困窮者が多かった。笹の実を採取している時期に、雨が多く降り、大夕立による出水で水死人が出たので「……高山江女性 不浄之登ル故欤と恐れ入り而……」と、笹の実を採りに出かける者が少なく一軒で五俵、一〇俵、二〇俵とまとめて採取する者は稀有であったという。
「青野村 年代覚書」の享保元年(一七一六)の項に「五月 奥山へい志く笹ニ自然子付キ 実ヲ大キ取申候」と自然粳が付いたことが書かれているが、この年は冷夏で凶作でもあった。享保元年(一七一六)から安永六年(一七七七)の自然粳付きまでに六一年の年月が過ぎ、次の自然粳が付く天保七年(一八三六)までが五九年と、ほぼ六〇年の間隔で自然粳が付いているが、この間隔で確実に笹が実を結ぶとは限らない。いつ起こるか予測することのできなかった凶作の性格から、すぐ入手することが不可能な自然粳を救荒植物とは考えにくい。
救荒植物や飢饉のときの非常食の製法は、地方(じかた)文書として数多く残っている。救荒植物はもちろんのこと松皮の餅、米を二倍にして食べる方法やわらだんごの製法などを回村して教授する者もおり、また、各大名の郡方役所が指導することも多かった(市史中巻別編村の生活)。救荒植物については整理して別掲する。
天保四年(一八三三)から八年(一八三七)にかけての広岡新田の作柄と気象状況、米値段をⅣ-36表に示したが、この表で見る限りこの地方での凶作は天保四年(一八三三)と七年(一八三六)である。いずれも凶作の翌年[天保五年 天保八年]の秋作は、万作と七分作となっている。したがって、天保六年(一八三五)の米値段[中津川・六月二俵分]は三分三朱まで下がっているが、八月には一朱の値上がりで一両となっている。これは、米の端境期と麦の作柄も考慮されることもあるからである。凶作年の食糧を考える場合は、秋の収穫から翌年の麦の収穫までを、どう食い繋ぐかが問題であり、新しい年の秋作収穫までの飢を凌げるだけの麦の収穫と畑作物の収量が必要であった。
Ⅳ-36 天保4年~天保8年の米値段と作柄
天保四年(一八三三)の凶作の原因は、冷涼な気候と日照時間の不足であり、天保七年(一八三六)は、
「三月ヨリ霖雨ニテ諸作ミノラズ……春ヨリ八月末 九月上旬迠雨降り続キ五穀ミノラズ(丙申凶作約・太田町吉村家文書)」と、多雨陰冷気候であり、「天明卯年[天明三年]之凶作ゟも難渋之年柄 みなみな当惑ニ候……(広岡・今井家文書)」と、この年のほうが凶作の影響が大きかった。「天保七申年凶作日記」では、この気候のことを「穂など出る精(せい)を失ひ」
と、生育期の霖雨による作物の様子を言い、「稲穂ハ出揃い」と、束の間の三日続きの晴天を歓ぶが、七月二三日[二百十日]には、丑寅(北東)の風雨が吹き荒れ「稲穂の鈴花つい失ひ」と、絶望的な状態が書かれ「秋の土用[晩穂は土用前には刈り上げる]になれど稲穂の色みなし」と、麦まきのため青枯れの稲を刈り取っている。
凶作の影響は翌年二月より出始め、二月二四日に飢人見分があり、二五日には飢扶持が下付されている(広岡・今井家文書)。
この飢扶持とは別に「飢扶持被下置候者共名」は、御救いの施粥を四月二三日から行っており四二人が飢扶持を受けている。これらの者は、四石四斗の高持百姓の一家四人を除くと、無高と抱とその家族であり日常的にも困窮者である。飢扶持は三歳以上の者に施されるが、飯沼村では一歳の男児が受給し、「右者病死仕候ニ付忠吉悴ニ難渋致候ニ付内分ニテ右者江相渡申候」と、帳面には死亡した六七歳の女性を書上げている。
飢扶持の施粥は米一合に水四合の割合で炊き、一日に二度[朝五ツ暮六ツ]村役人が交代で一人ずつ詰め禅林寺において粥を渡している。施粥の期間は四月二三日より六月一〇日迄の四七日間となっており、食糧の不足分は「松の皮ヲ搗キ 其他思ヒ思ヒ種々ノ物ヲ食ス(太田町・吉村家文書)」と、余裕のなさが書かれ、特に無高の者、寡婦など独身者が夫食に差しつかえ村内を袖乞し日を送ったことも記録されている。
1 覚(注進状) 一 芋葉 五拾俵 さといもの葉 一 干わらび弐貫メ 右ハ兼而被 仰付置候処 当村御百姓共ハ 銘々差出候ニ付 私共預り囲置申候 此段 御注進申上候 以上 広岡新田百姓代 茂左衛門 (天保四年) 癸巳正月 |
また三月一七日に御囲籾六俵が広岡新田に渡され、これは難渋者に割り、渡されている。岩村領が此の様な場合の対策として御囲籾[凶荒に対して備蓄する籾]を、はっきりと制度化したのは文政一二年(一八二九)からである[家臣は翌天保元年から]。また、慶安の御触書の具現化を図り、凶荒の手当として、蕨・ぜんまい・りょうぶなどの山菜や木の葉、それに、大根葉や里芋の葉・茎を捨てることなく備蓄を命じ報告を義務づけている。
凶作・不作の年には免定の率を下げなければ年貢を完納することは困難である。そのため苗木遠山家は凶・不作でも定免制をとるが「凶作引免願」が出された段階でそれ相当の「救助米」を渡すことになっており、岩村松平家や尾張徳川家では「用捨引」「救引」などの名目で石高、反別にかかわらず、見積りをもって率を下げている(恵那郡史)。
天保七年(一八三六)の広岡新田では、この年の年貢米七九俵一斗四升八合と村入用米一五俵二斗二升が必要であったが、◎御蔵米一五俵三斗六升八合、大豆三合。◎御囲籾米二斗。◎大豆一俵(金納)の米、大豆合わせて五〇俵一斗六升しか収納することができず四四俵三斗が不足となった。このため「……御蔵じめ出来仕り候義 手に及び申さず……致し方も御座なく……」と、年貢米不納の「御勘弁願い」を提出している。岩村松平家はこの不足米を、不納者として書上げ拝借米として処理し年貢皆済とするが、岩村松平家の美濃領内五二か村総てがこの恩恵を受けている。この処置につき家老丹羽瀬清左衛門と在地の行政官との間に意志の疎通がなく、この拝借米問題が天保騒動の発端となるのである。
広岡新田では村方の財政が逼迫(ひっぱく)し、大野の森[八幡神社・大野と広岡の共有]の風倒の社木の大檜、大樫を伐り七両三分九匁で売却し、一分弐朱を雑用に引いた残りを、広岡分五両、大野分二両二分に分け、松沢、越沢の水神社木は三両三分一朱三〇〇文で手放している。使途明細は不明であるが、おそらく村賄に使用したと思われる。この他、困窮者から村無尽の延期願いが出され、相談の上で一か年の延期を決めたり、村賄についても同様の措置が取られた。小作徳米の率や諸賄の利息も決められ、「手に及び難き者」は、組合の断わりを以って皆無の者もあった。これらのことを、
「……其年切りニ賄相済せ 彼是難渋を助け合い 困窮を凌ぐため滞(とどこお)りなく年越し候……」
と、書かれている。
天保七年(一八三六)九月に三河の足助騒動が、翌年一月には大塩平八郎の乱が起きているが、これらのことに付き、
「……諸色一統ニ高直(たかじき)ニ成行候得バ 騒ヶ敷き盗賊 押込み蔵破り 追はぎ辻ぎり その噂日々ニ止む事なく……」
と、物騒な世情の噂や足助、高崎、甲府の騒動、それに大坂の大火事を書き連ねている。岩村領松平家の治政改革は「不顧恐無余儀次第御願之事」いわゆる治政改革に反対する領内五二か村の惣役人が連判した嘆願書であるが、この書き出しに「文政十丁亥年 御改革以来村方難渋次第左之通」とあり、文政十年(一八二七)から家老丹羽瀬清左衛門らによって着手され、文政一三年(一八三〇)五月には、木版の慶安御触書、六諭衍義大意を配布し、六月には「国産の儀に付き心得方申談存意書」が出版され、桑樹の育成・植林と山林経営・製陶などを奨励、城下には国産所が、町には織物工場もできたという(岩村町史)。
天保四年(一八三三)五月広岡新田が岩村役所へ提出した「御国産御趣意書請書」の覚は、
婦人子供ニ至るまで仕業出精仕リ 御国益を増候様為仕候儀専要ニ存奉候事
と結び、岩村松平家は①新田開発、②荒廃地の掘り起し、③持林の伐採跡地や空地への植林、④凶荒に対する心がけと倹約を説き、慶安御触書の再発行により農民を統制し、六諭衍義(えんぎ)大意を精神的な柱として農民を支配しようと考えた。これらの書物は各村の役人が農民に読み聞かせ、子供の手習いの手本にし徹底的に普及が図られ、また、農業全書も各村へ一・二冊宛配布された。
このように岩村松平家の改革は、家老丹羽瀬清左衛門の理念を完うすべく滑り出したが、天保四年(一八三三)の凶作、同五年(一八三四)には江戸の領主邸の類焼、天保七年(一八三六)の大凶作により挫折した。
天保七年(一八三六)四月二一日、江戸より帰国した丹羽瀬清左衛門は岩村家財政の窮状を説き、
「……過分の拝借願いは心得違之事ニ候……不作ニ付ては元来御収納米少キ時節身勝手な願い取上難キ処……」
と、すでに拝借米として処理されていた年貢米[広岡新田は一四俵二斗]を返納するよう命じ、年貢米を拝借米としたことに付いては「……郡奉行 御代官等思慮薄キ不束な取りはからい致し……」と、郡方役人の非とし拝借米の取消しと合わせ、農民に不信感をいだかせる結果となり、困窮者であっても飢人改帳に書上げがなされなければ、一切の扶助を受けることが出来なくなった。
御国籾や飢扶持米を粥にして施したことは前に述べたが、施粥に使われた御囲籾を御済倉(すくいぐら)籾と呼び、
「……兼てケ様の年柄もあるべきかと厚い思召を以て 去ル巳丑年(文政一二年)より年々御囲置なられ 家中の者共も翌庚寅年(天保一年)より置かれ毎年御済倉(すくいぐら)へ相納置候事ニ候」
と、この囲籾を非常時に使用し、平時は貸付けを禁じたものであり、また、毎年新しい籾と古い籾を交換するが、これが円滑に行われておらず実質的には拝借米の格好になってしまった。この年の救済を丹羽瀬清左衛門が飢人のみに限定したのは、この様な事実を不正なものであると見たからである。施粥についても、
「……米ニ而ハ申間敷候と御仰せ 是又迷惑ニ候」と、不評であり「木の芽また草ノ葉を入れ 粥ニ仕立て其湯を呑候而田畑への作行も致すべく……」
と、農民は自分たちの裁量で二合の米をどれだけでも食いのばすことを考えて、遠方へ一日に二度の粥もらいは仕事にも差しさわるとも言っている。
四月晦日、拝借米上納をいつにするかと催促が来るが「……難渋の年柄ゆえ御返答ニ当惑仕候……」と、その返答に翌五月一日、村役人が出役し三か年賦にしてほしいと願い出るが、この願いを受理すると郡方の落度になると、返答をもらえなかった。凶荒に備えた御囲米が補充されていない実情で、改革を推進する側から見れば、郡方実務者の怠慢とも受け取れるが、その年々の作況にもよると思うが、実際には御済倉(すくいぐら)の籾を交換する余力が村々にはなかったとも考えられる。