現在の中津川市を構成する近世の村々を知るため、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いから、明治新政府の新戸籍の編成が行われた明治五年(一八七二)までの二七〇余年を村々の変遷を探る区切りとした。この間、地震も数多く起ったであろう。年表作製のため、文書・文献などを調査したが、他の災害に比べるとその記録はきわめて少なく、中津川市の場合、「天和元年(一六八一)二月及五月東濃地震」と恵那郡史の年表中の記事が初出である。
宝永四年(一七〇七)一〇月四日午(うま)ノ下刻に美濃大地震、美濃国内において全半壊の家屋八〇〇戸余を数えると言うが、この地方は、「当十月四日地震ニ付 潰家大破小破 人馬損 怪我人無御座候」と、この地震被害の調査に幕府が派遣した目付安部式部、坪内角左衛門ら一行八五人に中津川宿が、書上げ提出しており被害のなかったことを証明している。この地震以後は、弘化四年(一八四七)三月二四日晩戌ノ刻[午後一〇時]に起きた善光寺大地震の風聞を記録しているが、この地震は善光寺如来の開帳の期間であり、参詣人などにより意外に早くこの様子が知らされたと思う。善光寺地震から七年後の安政元年(一八五四)六月一四日に、四日市、伊賀上野近辺に地震があり、一一月四日には、相模、伊豆、駿河、遠江の諸国が、
「……東海道ミしまの宿より掛川迠之内 大地震ニて家八分通りつぶれる 宿々もつぶれ焼ける有 人死ニ多し」
と、壊滅状態となったが、翌五日にも
「……伊勢、紀州熊の浦津波打懸り 浦々白河原ニなりし所多し、大坂辺も津なみ打掛り人死ニ多し……」
と、伊勢湾一帯に大地震があり、震源地の違う地震が二日にわたり起こったのである(広岡・鷹見家文書)。
この地震を岩村領飯沼村の資料で追うと、
○六月一四日夜八ツ時[午前二時六月一五日]大地震「此辺土蔵壁破損多くあり」と、あるがその範囲は不明である。「勢州四日市ならび伊賀上野辺大変ニテ家多く潰れ人死多しと云う」
○一一月四日朝五ツ時[午前八時]頃、「当所前代未聞大地震して……」と、書かれており、かなりの大揺れであったにちがいない。家屋、土蔵の破損も多く、田畑の地割れや決潰個所も目についた。弥兵衛の扣田地である「坂之下」の沼田の水口が約三坪余(約九・九m2)陥没し、下の田の約三坪半が一尺余(約三〇cm)隆起している。枝村大野・阿木村広岡新田では地割れにより水が吹き出た所や断層が出来た所もあった。
「当村[広岡新田]地内蔵のかべ等ゑミこわれ剝げる 下広岡之内田地こわれ 或は地形さがりし所もあり 人家損しもあり(広岡・鷹見家文書)」と、隣接した広岡新田でも同じ様な状況であった。
地震が大きく揺れたあとも余震が続き、翌五日昼七ツ時[午後四時]頃、再び大地震が襲ってきたが、このとき南の方向で鳴動したと言い、このことを「……すさまじく誠ニ恐しき……」と、書いている。
以後、余震は一日に五~六度から七~八度位も二八日まで揺り通した。そのため村人達は小屋を掛け一一月一四日頃まで「心細き事也」と、終日この小屋でくらし、また、飯沼村山之神の柳右衛門の居宅が四日の地震で半壊となり岩村松平家は御救米を柳右衛門に下付している。
岩村松平家の駿河領内横内村の様子を付記する。
駿河御領内誠之外此之時大地震、横内村七拾軒余之家数ニて七軒残しあと六拾軒余惣潰れ 其辺東海道大変ニて 人死多くすべて浜辺ハ大津なみニて日本国中之大変と云う 大坂ニても人死数知れざるよし 西国ニてハ四日之地震より五日之地震大ゆりニて津なミ多よし也 此辺ニ而ハ五日の地震ハ四日の半分位と云フ
この年の一二月末までは、たびたび余震が続き、一二月七日朝七ツ半[午前五時]頃、大揺れが来た。この日は三度の大揺れと小さな揺れが五度もあったと言い、明けて安政二年(一八五五)一月七日夜五ツ[午後八時]と、九月二八日昼七ツ半[午後四時]に地震が起きている。
一〇月二日夜五ツ半[午後九時]大きく揺れるが、これは江戸の町の半分の倒壊と焼失し、死者が四千人に及んだ、あの「安政の大地震」であった。この時の被害の風聞を次の様に書いている。
「……此時江戸ハ大変ニておよそ江戸半分ゆり潰し 三拾六か所より出火ニて……地震ハ四日之四ツ時[午前一〇時]迄ゆりつづき上下死人数知レズ半死半生之者同断と云う……」
一二月二五日夜五ツ[午後八時]頃、大きな余震があるが「……此外 少々ずつゆり候事ハ 日々の事故(ゆ)え印(しる)すに及バズ別而大ゆりの地震ばかりを認(したた)め置(お)き申候」
と、かなり余震のあったこととあきらめにも似た心境を「印すに及バズ」と書いている。
安政五年(一八五八)二月二五日、越中に起きた大地震は山抜けの土砂が地獄谷を堰止め、二〇余日の間川水を止め、満水となった水は下流の村々を押し潰しているが、この時も大きな揺れがこの地方にもあった。