失火による過失者の処分の記録は、あまり残ってはいないが、尾張領茄子川村清助の例がある。この火事は延享元年(一七四四)一〇月三〇日清助方の西妻から夜九ツ[午前零時]頃出火した。村役人は中津川代官所[山村甚兵衛知行所代官所]へ注進すると、代官向井五右衛門は、
「……手過之儀ニ候得バ咎之軽重村法も可有之義 其方之了簡次第……」
と、村法に準じて村方で処分するように指示している。村では類焼もなく軽いことだからと、二・三日間、表へ出ることを遠慮するよう申付けている(茄子川・篠原家文書)。
宝暦七年(一七五七)一月三日、人々が新年の年礼に出払っていた昼八ツ時[午後二時]頃、尾張領駒場村[千村平右衛門・知行所]長右衛門の居宅から出火、
「……往還通り並家ゆえ火気速く満ち申候……」
と、街道沿いに家が建ち並ぶ駒場村の火事の特徴を書いている。この火災で火元と合わせて藁葺家三〇戸が焼失するが、前年[宝暦六年一七五六]松平君山が撰した「濃陽志略」の駒場村全戸数七九戸を基にすると、約三八%の戸数が焼失したことになる。
この大火から三八年後の寛政二年(一七九〇)一二月二三日に駒場村は再び大火に見舞われている。この日の四ツ時[午後十時]頃、長七方灰屋から出た火は、火元を含めて一〇戸を焼失して鎮火した(Ⅳ-38図)。このとき長七は川並(かわなみ)七里[川並番所へ公用の使いに出ること。]が当り、上地の川並番所から中津川宿問屋へ廻る途中にこの火事を知った。長七は供述の中で、
「……火事之様子見請け候得共 御七里大切ニ存じ候而中津川問屋場迠持届け相渡し候而……」
と、七里役の用件を済まして現場に着くと、まだ、自宅と隣家が燃えていただけだった。長七の女房が取り灰に水をかけ灰屋に入れたのは、夕方の七ツ半時[午後五時]頃であるから五時間後の出火である。女房は、
「……女之儀に御座候得ハうろたえ候而 何を一つ持出し申さず 其上馬一匹焼死仕候……」、
と、その狼狽ぶりが分かるような気がする。
庄屋儀右衛門は尾張徳川家太田代官所と久々利の陣屋へ、焼失家屋の分布を示す図面を添えた注進状を提出。翌一六日夜五ツ[午後八時]頃に太田代官所から月ヶ瀬善次郎が、同日昼九ツ時[午後一二時]過ぎに久々利からは水谷太兵衛が来村し出火原因の調査をしている。
両者の取調べは一貫して、
「……怪しき儀ハこれ無き哉 有躰[ありのまま]ニ申べき旨御座候」
と、失火か不審火かをはっきりさせるためのものであった。
「……私共類焼仕候 右火事之様子怪敷(あやしき)儀身分仕る哉と御尋(おたず)ね成られ候得共 存じ当り候儀御座なく候」
「……全く怪敷火ニ而ハ御座なく候 手過ニ相違いなく御座候」
と、誰れもが失火であることを証言している。この調べは、長七と女房の他に、西・南・北隣の者、それに類焼した九人が口上書を取られ、印鑑を焼失したので爪印を捺している。寛政三年(一七九一)二月尾張徳川家太田代官所月ヶ瀬善次郎に、
「……右出火之節 農具、其外渡世之諸道具迠も残らず焼失仕り 其外小屋かけも仕まつらず候而ハ 今日の凌(しの)ぎも仕まつらず候……」
と、窮状を訴え御救金の下付を願い、七月五日願い通りとなり、庄屋儀右衛門、市右衛門の両名が太田代官所へ間口金[間口の広さにより割賦する]の受取りに出かけⅣ-39表の様に割賦しているが、火元の長七はこの御救金の配分を受けておらず、この金は拝借金でなく「右間口金被下置候……」と、書かれており、下賜されたものである。
Ⅳ-38 駒場村焼失家屋図 寛政2年12月
Ⅳ-39 駒場村の焼失家屋の規模と間口割賦金 寛政2年(1790)12月
落合宿は、文化元年(一八〇四)一一月一八日に四四戸、同一二年(一八一五)三月には五六戸[毀家一戸]を焼失している。寛政元年(一七八九)の宿内の総家数は七八戸(中山道筋道之記)であるから、年数による増減を考えずこの数で割合を出すと、文化元年(一八〇四)は約五八%、文化一二年(一八一五)は約七四%の高い焼失率である。注進状は尾張徳川家、山村、千村の両地頭へは勿論のこと、宿駅である関係上、道中奉行にも提出しなければならなかった。
文化一二年(一八一五)の火災では御手当金一一七両二朱銀四匁を下付され間口割にしているが、これとは別に文化元年(一八〇四)に金三〇〇両三分銀九匁、文化一二年(一八一五)には金一三〇両三分二朱を尾張徳川家より拝借し建設資金としているが、文化元年の場合には一五か年の長期年賦であった。
文政五年(一八二二)一一月に尾張徳川家より前記二口の拝借金の返済を求められるが、文化元年の拝借は棚上げにし、亥年[文化一二年一八一五]分の一か年分を返し、天保一二年(一八四一)にも請求を受けるが、文化一二年分を一か年分返したのみで、落合宿はこの両年の火災で借りた金の残りは返済しなかった。
落合宿、駒場村共に尾張徳川家から御手当金の救済措置を受けるが、これだけの資金で宿場や家屋の復旧は難しかった。そのため落合宿は両度に四三一両二分二朱の金と銀九匁を尾張徳川家から借りることになるが、回収できそうにもない多額の拝借金を、落合宿の状態と宿駅という経済的に領主の管理費を必要とする施設であると言う認識の上で黙認したと考えられる。また、単純に結論づけることはできないが、街道沿いにあるとはいえ、領内知行所の一つ村にすぎない駒場村と、幕府の機関に組み込まれている落合村では、尾張徳川家の処し方に違いはあるが、間口金では宿場内の建物と一般農家の大きさを考えることがなく下付されている。
地震や火災を含めていずれの災害も、被害が大きければ大きい程、村の疲弊につながり、落合宿は二度の大火によって疲弊の度合が深く大きくなり加速していった(第六章第三節落合宿参照)。駒場村は度々の火災により文書資料などを焼失し、近世の駒場村の様子は他村の資料で知る以外になく、直接的に駒場村を全くつかめないのが現状である。