暦には、その年の春分点より次の年の春分点までの黄経三六〇度を二四に分割し、その一期間を約一五日とした二四節気が配され、八十八夜、入梅、半夏生などの雑事が書かれ、農民は、この暦から一か年の気候の移り変わりを知る手がかりとした。
幕府は貞享二年(一六八五)に最初の改暦をし、以後、数回の改暦を行うが、この地方の人々がこれら暦に密着した生活をしたとは考えられず、閏月がくい違う点から、むしろ「伊勢暦」などの民間暦を使った可能性が強い。農作業は暦による区切りによったが、この、めぐる日々の「節(ふし)」となったのが年中行事である。例外はあるものの、これらの行事は毎年、同じ月の同じ日に繰返し行われた。
これらの年中行事は、農村と商家の多い町では、その祝い方などに若干の差異が認められ、また、大名である苗木遠山家との間にも違いが見られるが、共通する年中行事が多い。これらを比較するために、
「奉書上諸国風俗御問状之事(飯沼村)」「萬記(中津川宿)」「年中行事其外共留帳(苗木遠山家)」の行事の記事をⅣ-40とし、また、本文にも記述した。農村の年中行事は「諸国風俗御問状」の答え書を補足するために「飯沼村・藤四郎日記」などの記事をつかった。
Ⅳ-40 中津川各地区の年中行事