年の始め

746 ~ 751 / 922ページ
正月の行事は、元旦から始まる大正月と一五日を中心とする小正月に分かれていた。大正月と小正月は、それぞれの意味を持ち、元旦から一五日の間にも様々な正月行事があった。そのため、年の暮れには、松迎え、煤払い、餅つきなどをして新しい春を迎えるのにふさわしい準備をした。岩村領飯沼村「藤四郎日記」は松迎えを、一二月一八日[明和四年一七六七]、一八日[明和八年一七七一]、一一日[安永七年一七七八]と記録しているが、中津川宿問屋市岡家の「萬記」は、一二月一三日を松迎えの日に決めており、迎えてきた松に米一升、御神酒、さんま二枚を供える慣らわしとなっていた。歳神の依り代とも言われる門松は、この地方では、松、そよごなどを盛り砂の上に立て注連縄を張るが、当時もこの様な方法をとったものと考えられる。
 煤払いは吉日を選びとり行われ、煤取りの年取(萬記)があったり、藁のほうきを三本こしらえ、これを煤払いのあと道辻に捨てる(諸国風俗御問状)とあるが、三本のほうきをつくる意味は分からないけど、ほうきを辻に捨てるのは、一年のよごれや厄介をほうきと共に捨てる意味であろう。
 暮に行う餅つきは、二八日以後に行うのが普通であった。鏡餅を供える場合は、神棚(天照大神、氏神など)、歳神、田ノ神、山ノ神、祖先(仏壇)、農具となっている。また、豊年を願い予祝として、竹の枝に餅をさし稲穂に見たてた「餅花」をつくりかざった。これらのことは歳神を迎えるための準備であり、恵方棚もつくられ供物として鏡餅、神酒が供えられた。大晦日の年越祝いの馳走を「諸国風俗御問状」は、有合せの品で一汁三菜と書き上げているが、「萬記」では、
 皿 人参 大根 焼とうふ
 焼物なし
  ・汁飯  ・平 こくしょう
 えび こんにゃく
 いも ごぼう
 焼とうふ

 が年越しの献立であった。苗木遠山家では文政一〇年(一八二七)の倹約以後の年男の配膳を、一汁三菜、冷酒、松葉するめとしている。
 「諸国風俗御問状」は、主人の膳部を恵方に向けて置くこと、福茶と言って茶釜の中に黒豆を三粒入れ、これを汲み当てた者に福が来ると言い、福を内へ入れるため門口(かどぐち)を早々に閉めることはせず、神仏に燈明を上げ静かに慎しんで夜を明かして新しい年を迎えるのをよしとしている。
 藤四郎日記は元旦の朝のことを、
 
 正月朔日 天気吉 早朝に例の如く御宮江罷出 神明宮江拝礼ならび観音様[子安観音]参詣仕候 役人中江年頭祝義申候 村方不残対面ス[文政二年一八一九]
 
 と書き、村方の年頭の礼を神明宮の境内で行っていることが分かる。尾張領茄子川村久左衛門は「年内日記帳」の中で、
 
 早朝 土産神参詣 諏訪前 坂本 町 鯉が平 年礼致ス[慶応二年一八六六]
 
 と、諏訪社参詣後、自宅へ帰る道順に年礼を済ましていることが分かる。二つの年礼の方法を書いたが、飯沼村でも個々の家を回り年礼を済ました時代もあり、年礼の方法が移り変わった一例である。
 正月二日からの年礼を、「萬記」によって見ると、
 
 二日 中村 実戸へ裃(かみしも)で行く
 三日 手金野 駒場へ羽織袴にて行く
 
 と、中津川の在方(ざいかた)や隣村へは、二日以後に出かけ、礼装も違っていた。「萬記」に書かれているように、隣村や遠方の親戚・知人の年礼は、どの村でも二日から行い、また、年礼の客もあった。
 
 ……親属往来饗應ニくひつ(喰積)ミ 屠蘇 雑煮などを仕候
 
 と、年礼の往来を「諸国風俗御問状」は書いている[喰積=食摘 現在の重詰の類]。
 元旦の氏神の参拝は、藤四郎、久左衛門の両日記に見られる様に早朝に行われた。この日、風もなく晴天であれば、「年内無難で世の中はよろし」と、されていた。
 元朝にいただく雑煮は、芋・人参・大根が入ったすましの吸物であり、田作りと黒豆を添えて食べ、組重には、数の子・田作り・煮豆・たたき牛蒡[細いごぼうをうでてたたき胡麻あえにし山椒、しょう油、酢しょう油で食べる]が詰められていた。
 農家では三か日の吉辰日を選び、田ノ神に串柿・田作り・花米を供え、恵方へ向かい田を打つ「打初め」や恵方へ馬を引き出す「野辺初め」が、行われた(諸国風俗御問状)。
 「萬記」は、
 
 二日夕方年越祝い 三日朝雑煮
 六日夕方年越 七日七種(ななくさ)
 
 と、三日正月、七日正月の前夜には、年越しをしたことを書いており、また、四日朝は宿問屋として馬を扱う関係上
 
 馬ノ沓(くつ)を乾(かわかし)置キ是ヲ以テ焚キ祖神ニ供ス
 
 と、村方とは違う行事があり、朝食に粥を食べている。
 この他の七日正月までの行事は、
・二日は掃初めと寺参り
・四日には墓にたてられた門松が取りはずされた。
 七日正月には七草粥がつくられた。飯沼村では七種の野菜が「すずな、なずな」この二種に省略され、これを「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に、七種(くさ)なずなをかきよせ、かきよせ。」と、七草ばやしを唱え、恵方へ向かい、すりこぎ・火箸・ほうちょうでたたいた。七草粥につかう野菜などの数や、はやし言葉はそれぞれに違うが、全国各地に見られる行事でもあった(諸国風俗御問状)。
 七日正月が終わり小正月までには、一一日の鏡開きがあり、この日までに、神棚に供えられていた鏡餅を下げ「汁粉」にして食べた。宿問屋である市岡家では汁粉を、同家に出入りの者にも振舞っている。この日は蔵開きでもあるが、正月三日に蔵の扉を開く家もあった。