小正月をこの地方では「御百姓の正月」と、言い、農業生産に関する予祝の行事が行われているが、現在は、それぞれの地域によって、これらの行事も簡略化されるか、まったく行われなくなっている。
小正月は一三日の餅つきから始まり、この日についた餅を「若餅(わかもち)」と呼び、菱形につくり鏡餅と同じ様に重ねて神棚の諸神を始め、臼神、カマド神、それに、日常生活にかかせない道具の神、農家においては諸農具に菱餅が供えられた。小正月に行われる左義長の火祭りのことを、この辺りでは「どんど」と呼んでいる。現在も市内各地で左義長が行われているが、一五日の朝やっているところが多い。飯沼村や苗木遠山家の記録は、一四日となっており、したがって一四日夜に左義長が行われたと言える。「諸国風俗御問状」では、どんどのとき「西域義長や東土……」と、はやしたてたことが書かれ、注連縄や門松、御守り札などが集められ燃やされた。また、恵方竹を灸箸にしたり松の燃えさしですりこ木をつくり使用すれば年内は悪病にかからないと言い、左義長が恵方へ転がれば、その年は豊作だと言い伝えられてきた。「年中行事其外共留帳」には、左義長の火を「火縄につけ勝手[台所]に上げる」とあり、すなわち煮炊きの種火にした。このほか「びんか」の木に「まゆ」の形をした団子をさし諸神に供えた。これを「まゆ玉」と、言うが、この地方ではまい玉と言い、まゆ玉はなしと報告している(諸国風俗御問状)。
小正月で大切なことは「御百姓の正月」と、言われる様に、村々においての作物の豊凶を占うことにあった。「諸国風俗御問状」には、飯沼村の粥占いの方法が書かれているが、各家で占われたものか、村の神事として行われたものか、藤四郎日記にも粥占いの記述がないのでまったく分からない。
「諸国風俗御問状」による粥占いの方法は、「年内の農業がおくれる」ことを理由に、餅入りの粥を夜明け前に煮ることを常としている。この粥の中へ管竹と、早生、晩生種の籾やその他の穀物に赤白などの印をつけて入れ煮立て、管竹につまる粥や穀物を見て作物の豊凶を占うわけであるが、享保年中に調査され文政一二年(一八二九)に幕府に献本された「飛州志」(長谷川忠崇著 岐阜日々新聞)では、
「……古昔ハ州内一般ニ行ヒシが後世悉ク廃シテ 今ハ大野郡小八賀郷ノ村里ニ残ルト云ヘリ 毎歳ノ正月一四日是ヲ勤ル……」
と、現在も粥占いを続けている丹生川村旗鉾[大野郡]を除いて、飛驒地方においては、すでに、管粥の神事がすたれたことを記録している。飯沼村では、この報告が書き上げられた文化一四年(一八一七)には、まだ、行われていたわけだが、粥占いがいつまで続けられたかは不明である。
この一五日正月の前日は年越しである。市岡家の献立は二日夕の年越しに準じ、苗木遠山家では年男配膳として一汁二菜、冷酒、松葉するめの献立で、一五日正月の年越しを重要視していない。
太陽暦では、二月三日・四日の立春の前日が節分であるが、陰陽暦では一二月に節分が行われる年もあり、元旦から七日までに節分がある年が多かった。「諸国風俗御問状」「萬記」では、節分は十二月の行事として書かれ、「年中行事其外留帳」では、十五日正月の前に書きとめられており、節分は春と冬との節の替りの日であった。節分の年取りもあり、まだ継続してこの行事を行っている家がわずかに残っている。
「萬記」では、飯を引いた後、鰯(いわし)の頭と尾を切って身の部分を箸(はし)にて食し、その箸で鰯の頭と尾をさすとある。また、大黒天に神酒・あせぼの木と鰯の頭と尾を供える。そのほかに出入口も鰯の頭と尾・あせぼの木を差し供え、くどにあせぼの木を燃やして豆をいり、大黒天に供えたのちに豆をまくとしている。
「諸国風俗御問状」は、厄年の者は歳数の豆に銭一二文を添え道辻に落せば、厄を払うと言い伝えていると書き、また、節分の豆を初雷のとき食べれば、雷災を除くとの申伝えがあるとしている。それに、火にくべて悪臭を発するもの[ここでは髪の落毛を巻くとある。]、を焼き、つばをはきかけ「なに焼くかやく 鬼のたふさ焼く」と、唱え邪気を払うとも言っている。
一月一八日、阿木村龍泉寺馬頭観音へ参詣。二〇日恵毘須講、大黒様の御影(絵像)を張り、鰯、さより、黒豆の御飯を供える。この日、岩村二十日市。また、一月七日は大井初市と藤四郎日記にある。