七日は「山の講」である。この日、山の神が田の神に「御移り」と伝えられ、神酒・あか飯などを山の神に供え、女性の参加を禁忌とし、男性のみで早朝に参詣するのは現在も同じである。
一五日の涅槃会[釈迦入滅の日]は寺参りのほか新よもぎを入れだんごをつくり供える。このだんごを「釈迦の鼻くそだんご」と、言った。春分に近い戊(つちのえ)の日を「社日(しゃにち)」と言うが飯沼村では、この日に御鍬太神宮へ赤飯、神酒を献じ五色の幟(のぼり)をたて五穀の豊作を祈った。「諸国風俗御問状」には「稲花[餅花のことか]をも仕候」とあり、また氏神へも参詣した。この御鍬大明神の祭りを「植木祭」と呼び、二月一五日が例祭となっていた。
二月最初の午の日を「初午」と言い「萬記」と「年中行事其外共留帳」には、初午のことは書かれていない。このことから初午は農業に関した行事であることが分かる。「諸国風俗御問状」では、初午稲荷祭と書き、色紙(いろがみ)の幟をこしらえ神酒・赤飯をまつりとあるが、阿木・飯沼村近辺では龍泉寺へ馬を引いて参詣しており、これが本来の行事であり馬頭観世音の信仰であったと考えられる。
春の彼岸は二四気の一つである春分を中日とし前後三日を言い、陰暦では二月中旬、太陽暦では三月二一日ごろに当たる。彼岸には白だんごを仏前にまつり、また、寺参りを行うが、農家においては年回りにより野菜の種まきや苗代のこしらえにかかり繁忙となるので取越し[定まった期日を繰り上げる]て行うことがあった。
三月節供の雛祭りには桃と桜の花をかざり、菱に切った草餅(緑)粟(あわ)餅(黄)黍餅(赤)をつき、魚、鳥など形のある菓子を多く用(もち)い供え物とした。「萬記」による市岡家の三月三日の献立は、
朝 | 昼 | |||||
皿 | なます あさり 大根 人参 | ・ 平 | あさり ごぼう いも とうふ わかめ | 赤めし ・ 汁 | 雑煮・ねぎ入り |
となっている。「下々(しもじも)までも用い申候」と桃の花の酒が飲まれ、この酒を飲めば病気を除き「かほばせ(顔ばせ)」を潤うと言われていた。この月に井ざらえをするが、このとき氏神と水神へ神酒を供え水口(みなくち)祭を行った。苗代をつくり種籾をまいたあと、苗代の水口に穂長(ほなが)と言って萱穂(かやほ)をたて、鳥の口[米でつくったあられ]を穂長に供えるが、鳥の口は種宛の残り籾を焼き米にしたものである[現在も飛驒地方で食べられている]。
四月八日の仏生会を「諸国風俗御問状」は、
寺にては草花にて御堂の屋根をふき 御出生躰の釈迦(誕生仏の像)をかざり 産湯と申して甘茶を供えひたし 仏詣の者にあびせ奉り拝礼し産湯を迎え[甘茶を持ち帰る]千早振卯月八日という歌……
と、現在でも変わらない「花祭り」のことを書いている。持ち帰った甘茶で墨をすり「千早振る卯月八日は吉日よ髪さけ虫を成敗(せいばい)ぞする」と、書いた紙を逆(さかさま)に張ると、髪さけ虫[頭髪をさくという想像上の虫]と、ながむし[蛇の異称]を避けると言う。
「萬記」によれば、よもぎ餅をつき、白粉餅と共に釈迦に供えたと言う。
仏生会が子ども中心の行事なら、四月一三、一四日の「おんぞ」は女性の行事であった。おんぞの日にはよもぎ餅(おんぞ餅)をつき、伊勢太神宮に神酒と一緒に供えた。女性は一三日の早朝に髪を結いおんぞを祝い、昼頃より一四日の昼前まで女性の手業(てわざ)を一切行わず、おんぞ餅を土産に里帰りするのを常とした。「萬記」では、大黒様だけにおんぞ餅を供えている。
五月の節供は草刈りから麦刈り、引き続いて田植えと多忙をきわめ、五日に行われることはまれで取越すほうが多かった。四日には幟をたて菖蒲、よもぎで屋根を葺き、笹の葉かかりやすの葉にて粽(ちまき)、それに柏餅を三日につくり、赤飯・神酒と共に諸神に供えた。菖蒲酒を飲み、粽・柏餅・赤飯は親類とやりとりして食べた。また四日夜には天より薬の露が降ると言われ、この夜露を受けた伸びのよいよもぎをもぐさにして灸をすえると諸病を治すと伝えられている。