田植えと田植歌

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田植えに付いた行事として「さしびらき」がある。吉日を選び田の神へ小豆飯・神酒・苗三把を供え植初めをした。植付けが終わると「さのぼり」と言い、さしびらきと同様の供え物をし田植が終わったことを祝った。
 
     田植歌(諸国風俗御問状)
 ・やら おめでたや田郎治どのえ 笠のはに 黄金(こがね)花咲く
                    黄金花咲きて ノヲヲ うらには銭がなりそろ
 ・婿どのえ さいたる刀 うへえとろとろ 赤銅(あかかね)の目貫(めぬき)の中は木刀(きかたな)
                    木刀なれど 京へさす 奈良へ指す 大坂へ指す
     田植歌(尾州家日記録ノ内)
 ・見事ナのふ苗木殿の麦刈 阿み笠の そのあみ笠のふ ふるによしてるによし
  忍ぶにもよしといへばのふ 木から語る露さえ作をあらさず
  ならさすはらはらとのふ
 
 江戸時代後期に、東北地方の民俗学的な資料を残した、三河の人菅江真澄は、天明二年(一七八二)北への旅立ちの途中、土岐郡より恵那郡に入り東野村にて田植歌・雨乞歌を採取し「ひなのひとふし」に集録している。
 
     三野国 田植歌
 ・やあらおめでたや太郎次どの 笠のはに こがね花さく
  こがね花咲くはの そのうらうらに銭がなりそろ
 ・鳴る瀬はならでふちがなる やあらおそろしや
  太郎次はらたつなよ ありがたや 行きたやわれが小宿に
(菅江真澄著・内田武志・宮本常一編「菅江真澄遊覧記」99平凡社)
 
 六月の行事は、夏に向かい高温多湿な気候なために起こる流行病や暑気に負けないように行われた。陰暦六月一四日、一五日の津島祭では一六日の深夜に葭に一切の汚れをつけて流す「神葭(みよし)流し」の厄送りの神事が行われた。
 飯沼村では一一日と一二日に幣をつくり村内の家々の厄と疫病を祓い、麦からで「ぶざ」という人形をつくり疫病神と共に村境まで送り、厄と疫病は次の村から村へと神送りをして津島まで送られ、津島で疫病は神葭流しにより海へ流すと言われてきた。このことをこの辺りでは「送り神」と呼んでおり、千旦林地区辻原では男根に乗った居森と馬に乗った弥五郎が(Ⅳ-41図)、阿木地区野内では大蛇が麦からでつくられ 両地区共にこの行事が続けられている。

Ⅳ-41 辻原の送り神の麦藁人形 (中津川考古学研会報より)

 一五日天王祭。「萬記」では、一四日牛頭天王に神酒をあげ 苗木遠山家では祇園といい冷麦を食す慣しであった。飯沼村では、この日氏神の庭草取りの後、牛頭天王祭を行い 神前に神酒を供え提灯をともし息災と延命を祈った。この天王祭は藤四郎日記では、文化二年(一八〇五)が初出で、祭日も一六日であり、「天王祭」が行われるようになったのは文化二年前後と推定される。
 一六日は嘉定(祥)喰、この日一六個の餅か菓子を神に供えそれを食して疫病を払うと言われている。飯沼村ではただ嘉定と言い小麦だんごを牛頭天王に供え、うどんを打ち嘉定を祝って食べると瘧(ママ)[瘧(おこり)の誤りかまたは虎列剌のことか]を煩(わずら)わないと伝えられていた。
 土用は四季を通して一回ずつあるが夏の行事が重要視されている。この地方でも夏以外の土用行事はなく、夏の土用に餅をつき「土用餅」といい、これを食べると暑気払いになると言われている。「萬記」では小豆餅をつくり仏前と大黒様に供えている。また蒜(ひる)[野びるかニンニクかは不明]を切り小豆二粒と共に水にて飲むと書かれているがこれも暑気払いと思われる。
 「諸国風俗御問状」に「此の時分雨乞の事」とある。雨乞の方法として法者に祈願を頼んだり、鎌や鍬を村中の者が手にしない「鎌鍬留」氏神への千度参りの「数参り」。それに諏訪明神の水を拝借したり多度神社へ行き参拝祈願することをあげている。
 六月二八日、現在も続けられている阿木村風神祭(かざかみまつり)。風神に参拝したり 勧請した風神の祠(ほこら)に赤飯や神酒を供えて農作物に風害のないよう祈願した。