現在、行われている七夕祭は様々な故事が語られるなかで、ほぼ共通したものになってきている。「諸国風俗御問状」と「萬記」は七夕に関しての由来などは書いておらず、苗木遠山家でも七夕「一汁二菜・松葉するめ」と七夕配膳を書いているだけで、この地方の七夕祭のくわしいことは分からないが、次のような七夕祭の記事が見られる。
七月六日夜、持ち歌[内容不詳]を色紙の短冊に書き葉付き竹に付ける。これに七夕の供物として神酒の他に、そうめん・うり[萬記は真桑うり]・すいか・なす・ささげの野菜と粟・黍・稗の穂の穀物[萬記はなし]が供えられたがすべて初物となっている[飯沼村]。『萬記』は七夕を祀(まつ)り供物を盆に入れて上げると書いている。この七夕とは七夕竹のことを言っており供物は床の間、机の上にも供えられ、七日朝、大黒天に神酒を上げている。『諸国風俗御問状』は、
「七日朝早々よごれ候品を川にて洗候へばあか落候と申伝候」
と書き上げているが、この日は各地で水に関した祭りが多く、現在でも続けられているところもある。また七日は盆行事の始まりであり墓掃除、墓参が行われた[飯沼村]。
『諸国風俗御問状』は一三日を「盆供たま祭」と書き、一四日を「魂祭(たままつり)」としている。これは文化年間[一八〇四 一八一七]に儒者屋代弘賢[幕府の右筆を勤める]が、各地の年中行事や風俗を調査する目的で地方に配布した質問書の項目通りに書いたからである。この辺りでは「萬記」に見られるように一三日は「御精霊(おしょろ)迎え」、一四日一五日が「御(お)盆」「施餓鬼」と、呼ばれるのがふつうである。
一三日、精霊を迎えるために位牌を安置し供物をのせる「精霊棚」をつくる。ござを敷き[場所不詳]蓮の葉の上に位牌をかざり、桔梗・かるかや・女郎花などの盆花を供える。この日に墓参りをし、晩にだんごや茶湯を供え燈明を上げ迎え火をたく。『萬記』では、袴を着用し宝道寺(墓地)へ行き精霊を迎えるとある。
一四日「魂祭(たままつり)」を行う。供物は朝茶湯・餅。日中は茄子の粥、晩に御飯を供える。度々供えてある水をかえる。この日門火をたく。『萬記』によれば、市岡家では一三日から一六日まで門に松明をともした。
一五日、朝茶湯に御飯。昼そうめん。晩御飯にだんご、度々水をかえる。夜、送り火をたき一六日未明に精霊を流す。土産として豆の葉に塩・味噌・山椒をつつみ、茄子と麻からにて馬二匹をこしらえ馬につけ、茶湯・御飯・水を供え松明をともし精霊を川へ送る。苗木遠山家では、一五日によもぎ飯を食している。
苗木遠山家では七月一八日が生身魂とあり、「子どもより祝い 目録 酒二樽 肴にて勤め夕方披露」とあり、その意味はよく分からないが、生身魂は新しい精霊もなく一族が健康であることを祝ったものである。飯沼村の例では「素麺を祝義ニ取遣(とりやり)仕候」とあり、そのことがうなずける。
この他の盆行事は、施餓鬼の寺参りはするが、ながれ灌頂や盆おどりは此の地にはないと書上げている。
二四日阿木村の秋葉祭。花火・踊りが行われてきたが、近年は松明にて万燈を奉献したとあり、この月の婚礼や移転を忌み嫌うとも書かれている。