八朔[八月一日]は確かないわれもなく行事が続けられ、藤四郎日記では「遊び申候」と、村中が休日であった。『諸国風俗御問状』では赤飯を蒸すか餅をつくとあり。『萬記』では大黒神へ「御しきを上げる」となっている。八月一五日の月見については芋・だんごを上げるの記述だけである。九月一三日の月見には芋、だんごの他に豆、栗が供えられた。七月より四十八夜念仏が始まり、「彼岸のころ念仏供養」となっているが、彼岸と農繁期が重なることもあり仏事がこの月に取越し行われることが多く『萬記』では、彼岸は九月四日となっている。
稲のかり始めに吉日を選び「かけ穂」と言い、栗の枝に稲穂をかけて諸神に供え祀り、その後、それぞれに稲刈りを始めた。また、「初穂」と言い、焼米をつくり諸仏神に供え、それをおたがいにやりとりした。
稲刈りが終わると「刈り納め」と言い、ぼた餅をこしらえて鎌に供え祝い、稲のこきしまいは、「こばし祝い」と言い、餅をつき千歯こきに供えこれを祝った。
九月九日の重陽の節句には、菊酒が神前に供えられ、赤飯・芋・茄子などを仏前に供え節句を祝った。以前は、
「九日目出たや腹たいこ、門で踊るは何者ぞ、胸につかえててきないぞ。」[飛驒方言では苦しいの意味]
と、匍(は)って踊ったという。
一〇月の初めての亥の日を「亥の子」と言う。この日大きめにつくった「芋ごね餅[製法不詳]」に小豆の粉、大豆の粉をまぶし升(ます)に入れ神酒と共に薬師如来、十二神将の内、亥の神に供えると申し伝えられてきた。この日、亥の神を祀り祝うと「運がよい」とも言われている。七日は山の講。田の神が山へ移るといわれ、朝ゆっくり小豆餅、赤飯、鰯を山神へ供え参詣する。
一〇月二七日は飯沼村の湯立である。八月六日に行われていた氏神の祭礼は正徳年間以前[一七一一 一七一五]は八月一六日だったと言われ、天保一三年(一八四二)に岩村松平家の命により湯立てと祭礼を兼ね、嘉永六年(一八五三)に祭礼は、また、八月一六日に復しているが、湯立の日は祭礼のように変更されることなく続けられており、「藤四郎日記」にも「湯立にて遊申候」と、記載されている頻度も氏神の祭礼より高い(飯沼日記)。
湯立の神事の方法は分からないが「諸国風俗御問状」にも、近在の湯立のことが枝村も含めて五か所書かれているが、氏神の祭礼は「此月(八月)六日東野村祭礼ニ而操仕候」と、一例があるのみで、湯立は村にとって重要な行事、すなわち農作業が無事にすんだことの感謝と無病息災、それに、来る年の豊作を願い予祝が行われたと考えられる。
一一月二三日の大師講は、神酒・小豆粥を大師と仏前に供えると「萬記」にあるが、この大師は弘法大師と思われるが、天台宗の智者大師とか元三大師とも言われている。飯沼村では小豆粥を供え[詳細不明]年取りをすると伝えられ、このことは冬至前に煤取りをし家の中を潔め、冬至に神酒、赤飯を神前に供え冬至を祝うことと関係があると考えられる。大師講が年取りならば冬至は元旦にあたり、「萬記」にも「諸国風俗御問状」にも、ことわけは書いてなく、大師講が年取りや冬至前の煤取りの意味は分からないが、冬至から日あしが一日一日と延びて行くことに、この行事の重要な意味が隠されていると思われる。
一二月八日は「事納め」とか「事八日」と言われているが、「事納めの行事は不仕候」と、「諸国風俗御問状」に書かれ、この地方では行われておらず、「無実汁」を食べる風習はあった。これは無実の罪で処刑された者を供養すると言い(鈴木栄三・日本年中行事辞典・角川書店)「萬記」は夕食の献立を次の様に書いている。
夕 [汁 飯] 平(大根・いも・とうふ・えび・こんにゃく・ごぼう)
飯沼村では、この夜各家庭で「身祝い」と言い、無実汁を食することになっており、芋、大根、とうふに「こどうふ」と、言って「豆のだんご」をこしらえ、汁の中に入れて食べれば無実の難を逃れると言われていた。
新しい年を迎える準備から始まり、一二月八日の無実汁で一年を締め括ったが、また、よりよい新しい年を迎えるための準備が繰り返されたのである。