産土神と祭り

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近世の村にも必ず神社があった。新しい田を起こし村を分けても、著名な神社を勧請し末社として祀った。また中世の支配者が勧請した神社が引き続いて村人たちに信仰されることもあった。これらの神社を産土神とか氏神、鎮座する場所を指して、「森」と呼称するが、そのほかに村には、土俗的な神や、勧請した神が氏神の境内や独立した場所に、数多くの小祠として建てられたり合祀されている。天明二年(一七八二)三月、飯沼村向平(むこうびら)の五人組が愛宕堂を建て遷宮をし、御祝いに酒を飲み遊ぶ[仕事を休む]ことを許可してほしいと、庄屋に願い出ている。このように小祀は小さな単位で守られ、今も祭りが続けられている場合もあるが、明治になってから合併、合祀されたものもある(第七節八項参照)。
 中津川市は中津川宿村を中心として成立しているが、江戸時代の苗木領三か村、尾張領七か村、岩村領二か村の一二か村の集まりであり[本郷のみ]、それぞれの村に一つ以上の神社があった。
 これらの村の産土神では、祭日が収穫前ならば豊作を願い、秋の祭りならば豊作を祝い神事が行われた。飯沼村の「諸国風俗御問状」の御答書には、年中行事の中に産土神の祭礼は記載がなく、湯立のみが記載されている(前節・秋冬の行事参照)。この湯立の神事は、産土神の祭礼とは別に行われるのが普通であった。
 千旦林村の安永三年(一七七四)の「御物成勘定目録」に「八幡宮門はやし(林)并ニ湯立被下候」と、三斗の米が年貢から除かれ、慶応元年(一八六五)一一月六日には茄子川村広久手組の氏神、愛宕神社の湯立が行われており、そのとき米二合と小豆一合、御神酒代を一二文ずつ集め、町代[集落の代表]二人を決めている(茄子川村久左衛門日記)。湯立は初冬に挙行され来年の豊作を予祝したり、豊凶の託宣を神官か巫子より受けるのであるが、中津川宿天満宮の湯立は、六月二五日と暑い季節に向かい疫病を払ういろあいが濃く、農村で行われる湯立とは意味が違っている。村の産土神でない小祠でも、鯉が平の愛宕神社、中津川の天満宮の例のように祭りは行われていた。