茄子川村の花馬

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久左衛門日記の慶応元年(一八六五)七月二六日の記事に「諏訪大明神祭礼花作り 当本西坂新七御神馬久左衛門」と、鯉が平では色紙をつかい稲穂を模した三六五本の花を、当本の新七方でつくり、花を付け御宮まで巡幸する馬を久左衛門方で出すことと、祭礼当日は、
 
 御祭礼神馬 坂本 鯉ヶ平 中野 東町 中切 諏訪前下町馬蹄(しめ)て六ッ首尾能相渡り済み
 
 と、各集落より花馬が六頭出て無事に祭礼が終ったことを書いている。
 茄子川では農耕に機械が使用され、農家から馬の姿が見られなくなると、花馬も花神輿にかわったが、諏訪神社の花馬の起源は定かではない。また「野田 坂本組 御祭礼諸入用帳」が明和二年(一七六五)から、慶応四年(明治元年)(一八六八)まで一〇三年間の内、八五冊が残っており、記述内容は祭礼費用の取集めと花馬につかった経費が記録されている。
 野田・坂本組の祭礼費用は高持・無高(中役・二番割)・心持次第(下役・三番割)の三つに分けて集められ、安永六年(一七七七)の集金例を見ると高持三二文、無高二〇文、心持次第二文、五文、六文各一人、三文三人となっている。割当ての金額や割合は一定しておらず、かかった費用は祭り後に割り振ったとも考えられる。また、高持、無高、心持次第のそれぞれの人数は、その年によって一定せず流動的である。文政元年(一八一八)から一二年(一八二九)の一二年間の集金の平均は、高持六四文、無高七文、心持次第三文[いずれも四捨五入]であるが、一二年間に五か年は心持次第からは徴集していない。金の使途については次のグラフのようになっており、天保元年(一八三〇)から一四年(一八四三)は割合の差はなく、飲食につかった金が七割を超し、とくに酒代が年平均一貫一六三文余と多く、花馬につかう御幣をつくるときから祭りが始まっているわけである。酒代に次いで神馬の大豆一〇〇文、馬の口を取る者に一〇〇文の小遣いを渡しているが、文化七年(一八一〇)、文政一〇年(一八二七)一一年には二〇〇文、文政八年(一八二五)九年に三〇〇文の大豆代支払われている。
 野田・坂本組の神馬は、神の依り代の御幣をつけ、花馬の先頭を行くのであるから、御幣をつくる紙は吟味され、弘化三年(一八四六)には、
 
 中村源十殿にて紙すきなおし 但し百目六分ツツだちん共 此内弐束八状受取り
 
と、五四八文を支払っており、このようなすき直しの年は五か年あるが、御幣をつくる材料の麻、小紙、二〇枚切半紙は毎年購入されるとは限らなかった。
 文化二年(一八〇五)祭礼は、人形操りが奉納され、同八年(一八一一)は、茄子川村舞台が完成し両年の花馬は中止となるが、野田・坂本組の御幣をつけた神馬は中止とならず、文化二年は当本の町内より紙代四〇〇文を受取り、八年には諸入用金を集めていない。天保一〇年(一八三九)「きょうけんある年者(は)弐朱もらひ申候野田・坂本町代兵右衛門保吉」と、花馬にかわり狂言が奉納されていることが書かれている。この様に茄子川村諏訪神社では、諏訪前上町の獅子舞と花馬が奉納されるが、それぞれの村でも様々な神事や芸能が祭日に挙行された。中津川宿の祭りの様子をⅣ-43表にした。支配と書かれた神社は氏子を持たないが、建立されている周辺の人たちが管理し祭りを主宰することである。

Ⅳ-42 花馬につかわれた費用の割合  文政1~12年(平均)


Ⅳ-43 中津川宿村の祭礼