飯沼村の花火

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飯沼村神明神社に奉納されていた花火は、天正年間が起源と言われている。市史中巻別編「村の生活」に所収した天明四年(一七八四)の藤四郎日記から花火に関係した記事を抜き書きすると、次のように記録されている。
 
    七月
・廿八日雨ふり 忠太郎より金弐両受取申候 米代之内ニ而ゑんせう(焰硝)代弐分引受取 伝右衛門殿江花火掛合仕候
・晦 日天気吉 花火拵ニ掛り
    八月
・朔日天気吉 村中遊念仏供養仕候 花火拵仕候
・二日天気吉 花火拵候 夜ニ入り子供前山平江岩村の花火見に参り
・四日天気吉 伝右衛門ニ銭百文渡し 花火入用之由 使い茂助
・五日雨降り 同断(花火)拵
・六日雨降り 野井よりおまら参り 村中遊申候
・九日天気吉 花火仕候 岩村より又右衛門 利兵衛悴参り泊り 土佐屋子供三人参り
 
 前年の凶作にかかわらず飯沼村では、祭礼に奉納する花火の準備を七月二八日から始めているが、これは例年の準備期間とあまり変わらない。神明神社の例祭は八月六日であるがこの年は五日から八日まで雨降り続きで、九日に花火を打上げて、「村中遊申候」と六日に祭りをやっている。花火の原料となる焰硝は、名古屋か中津川で購入した。
 寛政一二年(一八〇〇)七月二八日、広岡の牛方に焰硝の購入を依頼するが、牛方が注文書を落してしまい、牛方に頼まれた行者の伝言により、名古屋へ焰硝の購入に金二朱と銭五〇〇文を持ち、小八と言う者が急ぎ出かけている。この花火は産土神に奉納されたばかりでなく、明和六年(一七六九)八月二四日 飯沼村藤四郎他五人が領主に呼ばれ、領主邸の庭にて「こうし笠」「ほこ」「がらん星」「流星」の上覧花火を行っている。
 阿木村青野には、文政四年(一八二一)に書かれた「花火掛合秘伝覚」が残されている。千寿姫、孔雀の尾、都われなどの優美な名前がついた五七種の花火が書かれている。「右は塞之神 正寿院様方ニ而秘伝書申聞候」と、火薬の調合(掛合)は、それぞれの秘伝となっており、日記にも書かれていたように、藤四郎の子供たちが前山平(まえやまびら)で岩村の花火を望見したことなどを考え合せると、かなり広い範囲で花火がつくられ、各村で花火の美しさを競ったものと思われる。花火掛合秘伝覚から花火の原料と焰硝の混合例を見ると、
・龍勢、焰硝五〇匁、硫黄五匁、灰一〇匁、の配分となっている。この龍勢の配分に鉄を加える仕法が大部分を占めており、次に挙げるのは、焰硝、硫黄、灰、鉄を調合した花火と違った花火原料を使ったものである。
・山吹  焰硝一匁  硫黄七分五厘 灰二分七厘 鉛一匁 鉄三匁
・玉   焰硝五〇匁 硫黄四匁 灰四匁 樟脳七匁
・すだれ 焰硝一〇匁 硫黄五分
・大松火 焰硝三〇匁 硫黄三匁五分 灰二〇匁 松やに五匁
・白蓮華 焰硝一〇匁 硫黄三匁五分 すじ鉛四分 土おしろい五分
 と書いてあり、それぞれの量の配分の違いが、花火の炎や色などの違いとなったのであろう(恵那市大井町鷹見家文書)。
 領主の上覧を給わった飯沼村の花火も、文化一〇年(一八一三)に操り人形に替わり、文政五年(一八二二)には、芝居を笹踊りと称しているが、以後、祭礼に芝居が奉納されるようになった。再び奉納花火が挙行されるのは、一四年後の文政一〇年(一八二七)のことである。芝居が花火に替わる文政一〇年には 岩村松平家が財政の逼迫から逃がれるために「御改之儀」の個条書を布したり、元禄一六年(一七〇三)に令した「領民法度三〇ヶ条」を再発行し、人心を引締めて家老丹羽瀬清左衛門が財政の改革に着手した年である。天保一三年(一八四二)には、花火も湯立に替わるが、これは天保の改革の翌年であり、このように幕府や大名家の都合により祭礼に奉納するものが替っている。茄子川村でもそうであったように、文化二年(一八〇五)と文化八年(一八一一)に、操り人形や芝居により連綿と奉納され続けた花馬を中止した事実は、祭礼に奉納するものの変化を求める新しい波であった。