操り人形と芝居

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これまで、祭礼に奉納される神事として、茄子川村の花馬、飯沼村や阿木村青野の花火のことを述べたが、この様な祭礼奉納の神事や芸能がどの様に変遷したか、中村八幡神社の場合を例に図式化したのがⅣ-44表であり、奉納される神事と芸能は、二つの流れになることがはっきり分かる。このことは、前述した飯沼村でも同様に変遷し、おそらく他の村々でもこの様な傾向であったに違いない。この地方では、祭礼奉納の神事・芸能が長く伝承されることなく変遷し、一八世紀の中ごろより、祭礼に奉納される芸能として、操り人形、芝居が盛んに取り入れられる様になったと考えられ、この二つの芸能が推移した事実を確かな手がかりではないが、比較的史料の整った飯沼村を中心にして考えて見たい。また、「操り人形と芝居」の項を補足する意味で、この地区を中心とした史料や文献に書かれた操り人形・芝居に関することがらを年表ふうにまとめ、芸能発達の史料として所収する。

Ⅳ-44 中村八幡神社における神事・芸能の推移(胞梺雑誌略草憶)

 中津川市に関する地域では、元禄一一年(一六九八)の阿木村塞の神の開帳に、見世物や操り人形の興行があったとする、寛保二年(一七四二)三月に、阿木村が岩村松平家へ提出した口上書に書かれているのが興行の初出である。
 禁令としては、正保四年(一六四七)美濃代官岡田将監が管下の村々へ「百姓中江申渡」として布した二一か条の一つの「勧進能 相撲 あやつり等の見世物類在々ニ一切不可留置」を初めとして、苗木遠山家が享保八年(一七二三)に布達した芝居、操り人形の興行に対するものがあり、享保一二年(一七二七)には布達と共に代官が廻村している。これらの禁令は操り人形や芝居が興行されていたことを示している。
 宝暦一一年(一七六一)三月、苗木領内へ尾張より芝居、それに操り人形が巡業し、四月二五日にその興行を許した各村の役人が処分されるが、瀬戸村では庄屋・組頭らが遠慮を仰付られ、上地村役人が瀬戸村を預かるが、四月二七日に御免となっている。この年の同じころ、飯沼村藤四郎は茄子川村で芝居見物をしているが、おそらく尾張から来た連中だと思われる。このような芸能集団による活動が活発に行われ石高一〇八石三斗七升(美濃一国郷牒)の瀬戸村にまで浸透するのは、この地域では一八世紀以降と考えられる。
 明和四年(一七六七)四月八日に阿木村妻神(さいのかみ)、翌日は阿木と芝居の興行があり、五月になると七人芸が廻村し、八日に山田(やまのた)、九日に阿木、一〇日は約束により飯沼村兵右衛門方で興行するが、七人芸は飯沼村庄屋藤四郎ら八人で見物し、次の費用を出している。
・花代一人宛 銭一五〇文・宿代 銭三〇〇文 伝右衛門に渡す
 この八人は飯沼村と枝村大野の富裕な階層の農民であり、この七人芸は、飯沼村の様に特定の者と人数を対象とする民家での興行でもあった。
 明和四年(一七六七)芝居と七人芸のことは「藤四郎日記」によるが、この日記をもとにして、芝居や操り人形がどの様に飯沼村で興行され、また、村人たちの手で演じられるようになるかの推移を少しでも明らかにし、地域全体の展開を考える参考としたい。
 安永六年(一七七七)三月、飯沼村子安観音の開帳に芝居の興行があり、三月六日から七日の七ツ時にかけ、藤四郎らも手伝い仮設の舞台をつくっている。芝居の芸題は「矢口ノ渡し」「太平記」などで、一二日には岩村松平家の物頭三好源太夫が見物をしている。
 寛政四年(一七九二)七月一五日には、操り人形「由良ノ湊 千軒長者六幕」が、五輪(地名)にて演じられている。この二つを考えるとき、前述の芝居は役者を職業としている人たちにより演じられたであろうが、寛政四年の操り人形は、翌五年(一七九三)から、飯沼村の人たちの手で人形が動かされていることから、簡単に結論づけることはできないが、すでに操り人形を使って演じることを自分達のものとしていたと思われる。ここで寛政五年(一七九三)の操り人形を上演し終るまでの経過を原文のまま書いて見よう。
 
 六日晦日 昨晩釜戸[瑞浪市釜戸町]より人形廻し師参り、五日壱分弐朱ニ而頼み稽古仕候。
 七月三日 昼ゟ忠兵衛方ニ而操けい古有之候
   四日 操障子骨出来唐紙ニ張申候
   五日 操今晩義左衛門殿方けい古
  一四日 川上ニ操有之増吉駒吉見物ニ参り
  一五日 長吉方ニ而そろい仕候
  一六日 五里人ニ而操仕候
  一七日 五里人ニ而操仕候 片付致遊申候
 
 釜戸からの人形廻し師が金一分二朱で五日間の指導を頼まれているが、釜戸での仕事を済ましてから飯沼村に来たのか、釜戸に定住していたのかは不明である。また、操り人形を指導した者が、農民なのか、このことを職業としていた者か分からないが、人形廻し師が村々を廻り人形の振りを教えていたことは、この記事からも事実であることが分かる。一四日には増吉と駒吉が、川上に出かけ操り人形を見物しているが、現在、市無形民俗文化財に指定されている「川上文楽」が史的資料に出てくる最初である。
 手金野村の人形の頭(かしら)は、現在市文化財資料室に保管されているが、これは、職人の手によらず村人たちの手によりつくられたと思われる素朴な人形の頭である。操り人形を自分たちで始めた村々の農民が最初に手にした人形は、このような手作りのものであったと思われる。

Ⅳ-45 手づくりの人形の頭(手賀野)

 文政二年(一八一九)岡瀬沢[恵那市大井町]から、飯沼村へ人形を借りに来ると、飯沼村では「周助 兵右衛門 銀右衛門にて遣し」と、人形の貸し借りが行われ、また、この記事から人形は三人が個々に所有したと考えられる。
 
 文化四年(一八〇七)五月六日
「田志ミ太夫参り泊り」
「七日 今夕泊り申候田志ミ太夫滞留仕候」
 
 と、浄瑠璃を語る太夫だろうか、七月一六日の操り人形が終演となるまで逗留している。この太夫の他に定蔵、槙ケ根[岩村町飯羽間]の嘉蔵が操り人形の指導に来村している。
 文化一三年(一八一六)三月二七日、神明の森にて岐阜より役者ら総勢一三人が芝居興行をし、藤四郎方に四人、下沢に二人、山の田三人と民家に分宿している。二九日には操り人形の一行一三人が神明森の舞台で「義経千本桜」を演じており、文政二年(一八一九)四月、藤四郎らは一二日、一四日、一七日に岩村へ芝居見物に出かけつぎの諸費用を支払っている(Ⅳ-46表)。この文政二年(一八一九)には、「飯沼森之舞台拵三月建築申候(阿木村誌稿)」とあり、新舞台の落成を祝ってか、八月一四日から四日間芝居を公演し、その段取りを五月から行っている。

Ⅳ-46 芝居見物の出金 (文政2年)

五月二〇日 若キ者祭礼舞台之相談ニ六七人参リ
六月一六日 祭礼の役割有り 当年ハ祇園祭礼信仰記切狂言ニ蓮理鉢植松杢右衛門之段に相定メ 村役人衆并ニ村当番寄合仕候 子供狂言文武の陣立 三嶋之段相定メ
七月一六日 若者共不残ヨミ(読)合仕候
  二一日 一昨日 紋太郎被参候て 今日ハ弥兵衛殿方ニテ小供けい古始メ申候 宮舞台拵に人足も出参り
  二二日 祭礼けい古に寺之若者不残参り 前堂ニて仕り
  二五日 太夫不参ニ付 今日弁蔵并ニ紋太郎名古屋迄も参り候趣ニテ遣候処 七ツ頃ニ帰り候 一日(ひと)市場[瑞浪市土岐町]大木と申太夫願 来月二日ニ此方へ参り候趣 それまで野井村を勤候趣
八月 三日 けい古 宇兵衛方ニテ仕候
   九日 祭礼指物てつだいニ儀右衛門 兵助参り居候
  一〇日 今日より宮ニテけい古仕候
  一四日 祭礼始メ 七ツ頃より雨ふり出し中入過ニまく仕り 夫切(それきり)ニテ仕舞夜入候
  一五日 祭礼 昨日之仕掛より仕り 五ツ頃ニ仕舞ニ相成 大入候て大詰りニ御座候
  一六日 祭礼始メ候処 今日も大入ニ御座候 丹羽瀬様御帰り 九ツ過ニ沢井様 三浦様御内 黒岩様御内大勢
  一七日 七ツ頃ニ少し雨ふり候得共 祭礼相済申 今日御家中石橋様御家四人其外大分御出被成候
  一八日 村中休 片付物いたし候
 
 子供芝居は二〇日余、若き者は五日余の稽古を積んだ。岩村松平家中の家族も見物に訪れ「大入候而大詰りニ御座候」「祭礼始メ候処 今日も大入ニ御座候」と、大盛況のうちに八月一八日「村中休 片付物いたし」と、無事に終了している。
 芝居につかわれた経費の中に、東野村からの脚本、大野屋の三味線二丁を借りた謝礼が含まれている。七月二五日、来村を依頼していた浄瑠璃を語る太夫が姿を見せなかった。若者頭の弁蔵と紋太郎は急ぎ太夫を探しに出かけるが、近在で都合がつかない場合は名古屋辺までもと考えていた。指導者として飯沼村に迎えられた紋太郎は名古屋近辺までも繫(つな)がりを持っていたと考えていいし、また、一日市場の大木太夫は、野井村の仕事を済ましてからの来村を約束しているが、浄瑠璃を語る太夫は大木太夫のように廻村して、祭礼に奉納する操り人形、芝居の公演を助け、地方に定住していたと推察ができる。だれによって弾かれたのか、大野屋から三味線二丁が借りられている。四月に岩村で芝居をし飯沼村の若い者から祝儀金二分をもらった指導者の紋太郎、一日市場の大木太夫、東野村の脚本と芝居などの芸事は広範囲な交流圏を形成していたのではないだろうか。

Ⅳ-47 芝居につかわれた経費  文政2年(1819)

 飯沼村での操り人形や狂言がどのような経過をたどったか、「藤四郎日記」により述べてきたが、日記は宝暦一一年(一七六一)から文政一〇年(一八二七)までの六六年間、二代により書き残され、その残存率は約六割五分である。この日記から操り人形と芝居に関する記事のある年の日記を拾い出すと、一八冊がそうであり、割合は四割二分と半数に満たない。また、藤四郎が個人的に観劇をした割合は 関係記事の七割七分に達している。このことは村民が観劇の機会を得るようになるのは、一部の富裕層を除いて、農民が自らの手で人形を操り芝居を演ずるようになってからであることを物語っている。
 寛政五年(一七九三)前後から操り人形が農民の手に移り、観るものから演ずるものになったと考えられる。寛政五年にしろ、文化四年(一八〇七)の操り人形の公演にしても、村内での指導者がいなくて釜戸よりの人形廻し師、それに槙か根の嘉蔵、定蔵の指導を必要としているが、農民が文化を享受する転機を迎えていたといえる。
 茄子川村では文化三年(一八〇六)の祭礼に操り人形を奉納している。文化八年(一八一一)の新舞台の落成には芝居の興行を行っており、中村八幡神社祭礼の変遷図でも操り人形から芝居へと移行している。また、飯沼村では文政二年(一八一九)に、舞台の新設と子供芝居、若キ者の芝居を行ったが、文政一〇年(一八二七)には操り人形を演じている。この年以後は公称笹踊り、すなわち芝居が興行されている。史料の空白は埋め切れないが、操り人形が農民の手で動かされているのは寛政年間からで、これが徐々に芝居に移り代わるのは文化・文政の頃からであろう。
「在々におゐて神事祭礼之節 或ハ作物虫送風祭なとゝ名付 芝居見世物同様之事を催し 衣裳道具等をも拵 見物人を集 金銀を費し候儀 有之よし相聞へ 不埒之事ニ候……」
 と、幕府によって出されたこの触書は、天明七年(一七八七)に始まった寛政の改革の継続であり農村での遊芸を禁止したものである。岩村松平家でも花火、角力、太神楽を禁止し、寛政一二年(一八〇〇)には祭礼神事に芝居や操り人形の奉納を禁じている。五年後の文化二年(一八〇五)にも同様の禁令を布しているが、飯沼村は文化四年(一八〇七)に操り人形の盆興行を行っている。このように禁令を緩めたり制約したりして、農村に根付く文化を遠まわりさせていた。