広岡の出店場銭出入一件

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文政五年(一八二二)七月 阿木村広岡新田の天神祭りに、近隣の村から天神祭に来た商人との間に争いが起きた。ことの起りは場銭の高低についてであるが、場銭の具体的金額が分からないので、どの程度の金額差で紛争が起きたか見当がつかない。芝居を奉納することになっていたこの祭りに「……舞台之場所江所々より商人入込候」と、書かれ、商人らの名前が文書の末尾に列記してあり、岩村七人、阿木村の五人を除くと各村一名ずつだが商人の次の出身村が記録してある。
 
  尾張領 馬場山田、
  幕領 大川・明知
  岩村領 岩村・上山田 佐々良木、槙か根、明知、上手向、久保原、阿木
 
 これらの商人は、各地の祭りに出向き店を出していたことがうかがえ、「……弐百五拾三人之商人甚差つかへニ相成候」と、この地域に組織された商人の仲間がいたことが分かるが、その実態はくわしくは把えられていない。舞台の世話人らは「場銭は了簡を附候得共 商人共承知不致候」と言い、「場銭余り高銭と存候」と、双方共に強硬な態度をくずさず、舞台世話人は「当村之内商人共を留置不致 荷物等も一切不預村内を追出候」と、七月二五日に店を撤去させた。
  交渉の余地なく広岡から追立てられた商人は、大野の組頭に、
「当村之内ニ而宿御貸シ候ぬ義ハ如何様之義」と、交渉にくるが、
「右之次第中老ゟ之差止めなれば役人之方ニては委細之わけは不存候 中老之方へ懸合召され」
  と、取合わず交渉の相手を失った商人らは、本郷[阿木村]の庄屋以下村役人へ訴へ出た。
 双方の主張は場銭の高低だけの問題でなくなり、二八日には広岡庄屋惣吉のもとを訪れた五人の代表は、
「荷物等も不預 宿も借シ給わらず仕(子)細如何之義」と、返答を迫るが、中老達は
「少々之場銭等も払不致候処 何様之難第(題)仕出候義と相知れず 若し留置ても宿賃銭勘定不致候」
 と、切り返している。
 二九日の夜、商人一五人と広岡・大野の村役人、それに中老が広岡庄屋宅に寄合った。商人側は
「……御当地之様に宿も貸給ず 荷物等も預り給ず候而ハ弐百五拾三人之商人 はなはだ差つかへニ相成候」
 と、訴えるが、村役人は
「左様之事なれば当地の役人を差置き阿木村之役所江申出せし子細は如何様之所存」
と、言うと、商人達は一言も返答ができなくなり「御上へ出候」と、交渉は決裂してしまった。これ以後、岩村松平家代官手代の裁決までの経過は次の通りである。
 晦日 広岡村役人と中老が寄合い対策を協議する。
 九月朔日 代官所手代へ大野庄屋吉右衛門、広岡庄屋惣吉、同夜に大野組頭、広岡百姓代が内伺いに行く。
 一一月六日 岩村町役人方から配符が来る。大野組頭、広岡組頭両名が七日に岩村の稲本屋市右衛門方へ出頭する。ここが町会所となり町役人が「中老中宿不致候をそのままに置子細之義ハ」と、尋問し、商人が願書を提出したから「中老の口上書を持って出頭せよ」申し付けられ、この日は町会所を退く。
 九日 広岡庄屋、広岡・大野両組頭が岩村町会所へ出頭すると「商人ニ宿も貸さず 荷物までも追い払ってよいことか。」と、厳重に申し渡され、両村の村役人は「其方の商人が場賃等も出さずに帰ってもよいと思っておられるか」と言い返すとなんの答えもなく、両村村役人は町会所より引きあげる。
 一五日 代官所手代へ両庄屋相談に行く。
 一六日 手代より配符がきて両庄屋、広岡組頭、大野百姓代の四人が代官所へ出頭す。
 一八日 阿木村々役人と飯沼村庄屋増吉、手代に呼び出され出頭する。「黒札ニて致すと被仰付 先年通り相成出入相済申候」と、裁決のことを書いているが、「黒札」にてもらいとは、「場札を裏にして伏せる」ことで表沙汰にしないことを意味している。長い時間が経過した割合にはあっけない幕切れとなった。この事件でも、たびたび「中老」の呼び名が出てくるが、若い者の先輩である中老が、祭礼や芝居などの中心となり万端を取りしきっていたことが分かる。祭礼にはこのようなもめごとが多く、坂本組帳には「この年けんかなし おもしろし おもしろし」と、落書きがしてあり、この様なもめごとが多くあったにちがいない。