諸勧進

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享和二年(一八〇二)、大田南畝は大坂よりの帰路を中山道にとった。その時の旅行記「壬戌紀行」の中で尾張領茄子川村五百羅漢について、
「……松原をへて小流をわたり、左に五百羅漢建立といへる札たてり。人にとふに、これより八町ばかりありといへばゆかず……」
 と、書いている。また、明治元年(一八六八)に笠松県役所に提出された、旗本馬場繁次郎知行所の村明細帳には、
 
 一 石仏五百羅漢
        右石仏供養毎年四月二日ニ御座候而鉄炮弓勧進仕候
 
と、書き上げられている。この五百羅漢は、寛政一一年(一七九九)四月二日に開眼したが、この石仏の建立は茄子川村を始めとして近郷の村々の寄進によったと「石仏五百羅漢勧化(かんげ)帳」は記録している。五百羅漢建立の勧化の経過などについては後述するが、このような勧進は、村々の小祠から有名な寺社の堂塔の建設や修復など様々な勧進が浄財を募るため村々を廻った。
 明和四年(一七六七)四月、紀州熊野権現勧化があり、岩村松平家はこれを領内各村の村高に応じて割当て、村高四五九石余(美濃一国郷牒)の飯沼村からは銭三三三文を徴集している。このような勧進の他に定期的に村々を廻る津島や伊勢の御師などの勧進があった。この勧進の様子を飯沼村の「藤四郎日記」によって見ると、
 天明五年(一七八五)二月一五日の記事は、多賀社[滋賀県多賀町]の使僧が飯沼から阿木へ予定を変更して越したこと、州原御師[美濃市州原神社]に地祭の謝礼として金一分を渡し、三月一七日から四月上旬にかけ代参を立てることを約している。
 寛政七年(一七九五)四月一一日「稲荷様御祈禱相済申候……」と、稲荷様[伏見社]の来村があり祈祷を受けている。この様に伏見稲荷の使僧や津島御師らは神符などの配布、それに祈祷を行い謝礼を受けた。これを初穂(お)米と言い「……初尾米代麦三斗六升三合、代弐朱と百七拾四文……」[享和元年一八〇一]と、初穂米を換金処分し金銭を持ち帰っている。
 飯沼村の藤四郎家では津島社の御立符(神符)の謝礼は金二朱を差上げるのをしきたりとしているが、米で支払うのが通例であった。その例として州原御師に差出した苗木領内日比野村紋蔵の、初尾米受取りの覚を掲載する(Ⅳ-52表参照)。
Ⅳ-52 初穂米の受取証
    覚
一 御初尾米九斗ト六升       日比野分村
   内六俵只今受取
   残追々受取申候
  外 上地村瀬戸村分共受取米高改致勘定中津川
  十八屋杢右衛門殿方迄壱両ニ付石壱斗六升之相場にて
  代金不残今月十日迄急度差出可申候
  万一滞候ハバ受人埓明可申候 為其仍如件
                      日比野村買主
                            紋  蔵印
  丑十二月二日
                       受人
                        吉田 武右衛門印
 州原御師
   大家刑部殿

 この他に、寛政五年(一七九三)五月 鹿島の「言触れ」が飯沼村へ来村し「世の中七八分 七分の照り三分の雨弐分の風 七分の煩(わずらい) 六分三之法まけ 四日 八日 十六日 廿七日 月に四日宛悪風吹き候間神明氏宮ヲ信心 これ有てよし」と、託宣している。神官の服装をして鹿島踊りをし勧進したと言う。寛政九年(一七九七)六月には、日光の祢宜が五〇〇文の奉加を受け 飯沼村より東野村まで村人の案内を乞うている。
 寛政七年(一七九五)二月 津島御師牛之太夫内の宇右衛門らが「来春も百人講太々御頼申候」と、太々講について依頼しており享和元年(一八〇一)七月 おそらく飯沼村内の加入者の掛金であろう講金八口分金二両を藤四郎が納めている。
 慶応元年(一八六五)秋、伊勢御師田中河井太夫の手代鈴岡善右衛門は、尾張領茄子川村に来て、太々講進中に伊勢神宮に永代献燈をすることを勧め、同村鯉ヶ平の久左衛門日記の翌二年(一八六六)一月一五日の記事は、
 「伊勢献燈ニ付き、河井太夫より右ニ付き御礼到来、篠原[長八郎]より始め連中へ廻す」と 一〇人の名前(Ⅳ-53表)をあげている。

Ⅳ-53 茄子川村伊勢太々講 献燈献額寄進者

 河井太夫の礼状は「…兼て御申合せ通り万度御祓い大麻進上候間 日出度御受納下され候」とあり「万度の御祓いをした大麻(神符)」を、永代献燈の御礼として太々講連中に配符している。また、慶応三年(一八六七)一月六日には、
 
田中河井太夫神前に太々講連中ニて額壱面掛る 右は去々[慶応元年一八六五]冬 御師手代鈴岡善兵衛殿頼みに付き拵る 額壱面代金壱両弐分ト弐匁五分
 
と、神前に献額したことが書かれ、永代献燈と共に太々講の手により奉納されたわけである。前述した飯沼村の津島太々百人講も、茄子川村の例の様に何かを奉納することを目的としているが詳しくは分からない。
 太々講の本来の活動は「伊勢太々講」と呼ばれ、伊勢神宮に太々神楽を奉納することであり、その費用を多人数でまかうため講中から、年番や鬮(くじ)により代参する者が選ばれ参宮することになっていた。また、御師やその手代は村々を廻り太麻[津島御師は御立符]を配布し初穂米を勧進し、太々講を組織して燈籠などの寄進を仰ぐ外に、伊勢神宮へ参拝に来た講中の者を御師の家に宿泊させるのも役目の一つであった。この様な例として、元治元年(一八六四)三月一二日、茄子川村鯉ヶ平の久左衛門ら一行四名は金毘羅参りの帰途、伊勢神宮に立寄り田中河井太夫方に止宿している(八章行旅参照)。