岩村領飯沼村の藤四郎ら一行一一名は享和元年(一八〇一)三月二七日に、尾張領茄子川村の五百羅漢から岩屋観音[千旦林岩屋堂]、それに木曽川に臨む玄済岩を訪れている。また、前年の四月二一日には
「奥渡(おくど)見物ニ米七夫婦 又四郎 おきく おふさ 大自郎 私 勘助 桶屋兵助九人参り 奥渡より茄子川羅かん江出東の村より暮帰り 勘助気分悪しく難儀なり」と、開眼直後の五百羅漢へ出かけている(藤四郎日記)。この藤四郎らの参拝巡路は、当時の標準的な参詣と遊山を兼ねたコースでもあった。この五百羅漢は、
「寛政十一己未四月二日に茄子川村羅僧様御目明ケ御座候 どうす(導師)は大義和尚也 投げ餅六〇櫃(ひつ)在り賑敷御座候」(吉村家文書)。
と、ある様に、羅漢像三〇体、他の仏像二四体の開眼供養がなされた。翌一二年(一八〇〇)四月二日の藤四郎日記には「茄子川羅かん御眼明江参詣」とあり、一二〇余体の石仏は、年次を追って段階的に造られたものであろう。また、久左衛門日記の慶応二年(一八六六)四月二日の記事は「弓鉄炮勧進興行」と書き、五百羅漢の開眼の日を縁日としていたことがわかる。
五百羅漢建立の経過や羅漢像寄進のことは、「石佛五百羅漢勧化帳」(市史中巻別編六信仰)にまとめられ 開眼供養の導師を勤めた大義が勧化帳の序を書いている。
大義はその中で五百羅漢の発願を、寛政六年(一七九四)七月、上總国市原郡海保村[千葉県千原市]森岩寺前住職越山と茄子川村の半蔵が寺居[茄子川中切地内]にて十一面観音を地中から得たこと、それに越山の師、宗龍大禅師の悲願であった五百羅漢建立の遺志実現のため、としている。
翌七年(一七九五)六月 越山らは尾張家寺社方役所へ五百羅漢建立の願書を提出するが、許可が下りたのは寛政一〇年(一七九八)四月のことであった。五百羅漢建立の諸入用金は越山と丈助が金一〇両を折半して積立て、建立場所は大半が入会地であったが、不足分は私有地の替地と寄付によりまかなった。こうして寛政一〇年(一七九八)一〇月から山を開き、信濃国伊奈郡高遠の石工 吉蔵と孫十郎、それに尾張領大井村[恵那市大井町]の久四郎が石像の制作にあたっている。越山が五百羅漢建立の本願主とした師宗龍は「飛州高山大隆寺和尚宗龍様御なりなられ 明(妙)見様をいわい申候 願主曽助」(恵那市史資料編)。
と、ある様に天明二年(一七八二)一〇月一六日に東野村[恵那市東野]に足跡を印している。宗龍は大隆寺[高山市春日町]の曹洞宗としての始祖であり寛政元年(一七八九)に歿している。また、大隆寺は越後国蒲原郡片桐村[新潟県北蒲原郡紫雲寺町片桐]観音院の末寺である。このことから大義が越後国前宗賢寺と勧化帳にあり、同帳序に、
「……別して云く越山老兄右の志願有りといえども旧夏より重病を受けて遠行するにあたわず……」
と、老兄と呼ぶ越山と大義の関係は深く、二人は宗龍の越後時代の弟子とも考えられ、それに勧化帳に見られる大隆寺恵林の名も住職が世襲ではなく、法縁で結ばれていた当時としては、当然のことであった(高山市史)。
また、半蔵の巡錫による越山との出逢いと絆は、二〇年後の再会となり、二人は旧交を暖めただけでなく、村人の協力を得て茄子川村という一村を超えた力により、五百羅漢建立の大事業がなしとげられたのである。