五百羅漢の寄進者

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「石仏五百羅漢勧化帳」には、一二四躰の石仏の寄進者が記録されている。本尊の釈迦牟尼仏の金二〇両、十六羅漢の金一両、五百羅漢の金二分と寄進の額はきまっていたが、なかには個人の寄進でなく「落合村壱躰六人組 外ニ弐朱ト百七拾文惣村中」と、多くの人たちの浄財で寄進された石仏もあり、中津川本町観音講連中など講連中の寄進は、町内 村内を廻り寄進を集めて建立したものと思われる。
 五百羅漢建立の勧進の具体的な方法は分からないが、寄進者を個人、講、村と組、寺院関係の四つに分け、その割合を見るとⅣ-54表の様になる。

Ⅳ-54 五百羅漢寄進者の割合


Ⅳ-55 五百羅漢本尊釈迦牟尼像

 個人の寄進が多く寺院関係は低率になっているが、茄子川村に隣接する村々のほとんどの寺院が、いずれかの石仏を寄進している。また、寄進者の地域別割合は、恵那郡の尾張領の村々の寄進が多く、他の尾張領からの寄進者も入れると六八%の高率となり、次いで岩村領内各村となっている。同じ隣接する大名領でも苗木領内からの寄進は「所々村々 阿木村之内川上村 大野 広岡 竹之越信州向郡 駒場 蛭川[この村々の一躰の寄進]」の中に苗木領蛭川村の一例だけである。
 尾張領内を細分すると、茄子川村三五%、中津川宿村二一%、千旦林村一七%となり、落合村、駒場村の寄進例が一で、手金野村の二例は、いかにも少なすぎる感じがしないでもない。中津川宿内の個人寄進を列記すると
・目揵指蓮尊者  一金壱両  中津川十八屋  羽間重蔵 羽間杢右衛門
・五百羅漢(六番)  一金壱両  中津川十八屋  羽間半兵衛
・五百羅漢  一金弐分  中津川中村屋  成木平助
・五百羅漢  一金弐分  中津川大津屋  菅井嘉兵衛

 の四躰である。当時、この地方の経済活動の中心地であったことから考えると、意外の感じがしないではない。それに尾張領内で西隣りとなる大井宿村は「岡瀬沢村(枝村)七右衛門」と「庄屋六右衛門支配 大井村中」の二例、それに、岩村領東野村は隣村であるが村中二躰の寄進である。このことから考えると手金野村、駒場村、落合村の寄進が少ないのは当然とも言える。また、苗木領内からの寄進が蛭川村の一例だけなのは、最初から勧化の対象から外していたのではないだろうか。これらの例の様に、村々の事情により諸勧進は容易にできなかったと思われるが、助郷伝馬などで経済的なかかわりが強い中津川宿村や個人的な交わりの濃い隣接した千旦林村の寄進が多いのは当然とは言え、また尾張領であっても直轄地でなく山村・千村氏などの知行所であることも理由の一つではないだろうか。しかし、手金野村、駒場村、落合村は両氏の知行所であり、落合宿は中津川宿同様に助郷伝馬で茄子川村と関係は深いが、五百羅漢の寄進が少ないのは、その村の取決めにかかわることや経済的な理由が考えられ、五百羅漢は茄子川村を中心とした勧化により建立され、親戚から知人、更に他村へと浄財を募っていったものと思われる。

Ⅳ-56 五百羅漢像