Ⅳ-58 飯沼の七福神像
この年の七月一四日・一五日の両日、飯沼村では豊年祭と称し七福神が村内を巡幸し、一五日には藤四郎方に泊り
「……七福神 村方御廻り成られ 私方ニ御泊り成られ候て御気嫌吉」と七福神が泊ったことに対し「御気嫌吉」と卒直な気持を表わしている。寛政四年(一七九二)には
「七月一五日 せがき済み 七福神村へ御出に成られ 又四郎方に御休み」
と、この年も七福神の巡行が記録され、開眼の年と共に祭日は七月一五日であるが、Ⅳ-59表の様に三月一五日、一〇月二〇日の年もあった。祭日が一定しないのと同様に「福神祭」「七福神祭」「豊年祭」と、呼称もそのつど違い、また、年二回の祭りを挙行した年もあった。祭日は盆を兼ねた年、恵毘須講[一〇月二〇日]を兼ねた年があるが、三月一五日が村の休日となり、村の年中行事の中に組み込まれたことが、Ⅳ-59表からうかがえる。現在、飯沼村の七福神は子安観音堂に合祀されているが、堂入りは寛政五年(一七九三)二月二七日に行われた。
Ⅳ-59 七福神の祭日
「……七福神 森へ堂入りこれ有り候 和尚様と出る 八ツ時より雨降り 参詣者少々御座候」
と、いかにも寂しい限りであり、村中を練り歩いた前年や天明七年(一七八七)の仰々しさが噓のようである。七福神の村内巡幸を、穿った見方をすれば 七福神開眼の祝いはあろうが、前年[天明六年一七八六]は、二度にわたる暴風と秋の霖雨による凶作。寛政元年(一七八九)から五年(一七九三)まで続く異常な気候と連続の水害。これらの災難を払拭するための祭りを盛大にしたと思われる。
現存する七福神は飯沼村枝村であった大野、それに阿木村宮田と阿木村枝村川上、尾張領中津川宿村枝村川上の五か所を確認している。宮田においては現在も八月一日、一〇日、二〇日、三〇日が祀りの日となっているが、他の七福神については未調査である。この七福神の様な新しい信仰は、現世利益を求める傾向が強く流行神の様に思えるが、大野へは文化一三年(一八一六)三月三日に、川上庚申堂[中津川村川上]の七福神は万延元年(一八六〇)に開眼している。
大野の七福神は飯沼村での開眼より九年後、さらに川上までには七三年という年の隔りがあり、爆発的に伝播していく信仰ではなく、飯沼村より他地域への拡がりもきわめて緩やかであった。
川上庚申堂の七福神は厨子に納められており、その扉には七福神建立の発起を「信心講」としており、三躰の像と金三分を集め、寄進方として「観音講女人連中」「前念仏連中」と 個人四名が金一両三朱を寄進している。
Ⅳ-60 川上庚申堂の七福神
ここに書かれている信心講とは、七福神を信仰する人々[一〇名]の集りであり、七福神を奉造することにより信心の依りどころを求めたと思われる。
現在も宮田においては、供花、献茶をし七福神を祀っているが、その信仰の実態をくわしく知ることはできない。川上の信心講連中は 信仰の対象の七福神を持つ前にも七福神を信奉し、飯沼村、大野の七福神像が信仰されたことが考えられる。七福神が飯沼村に入ってから、村内だけでなく他村からも、絶えることなく信仰していた人々があったと推察できる。
七福神を崇敬することとは別に、恵毘須天、大黒天信仰は、すでに庶民の間に定着しており、初恵毘須とか七日恵毘須とよばれ、福運を求めて近郷近在から人が集まる大井宿の七日市や岩村城下の廿日市は、藤四郎日記にもしばしば見られ、中津川宿本陣市岡家の萬記[弘化二年一八四五]によれば、大黒天、恵毘須天に次の様に供献する日が記されている(Ⅳ-61参照)。
Ⅳ-61 大黒・恵比須天への供献 市岡家文書「萬記」より
萬記は諸神仏に供献することなどの心得を記載したもので、形式的なものであるが、これにより恵毘須・大黒天の信仰が町や在郷を問わず浸透していたことが分かり、飯沼村の場合もこの二神の信仰が基になったと考えることができる。