この念仏供養塔群の上限年代は享保一七年(一七三二)までさかのぼり、いちばん新しい供養塔は明治一三年(一八七〇)である。造立の年代に一四八年の時代の幅が見られるが、これらの念仏供養塔の造立が盛んに行われるのは寛延年間(一七四八-一七五〇)から天保元年(一八三〇)ころまでである(Ⅳ-62表参照)。藤上の念仏供養塔は、夜念仏と刻銘されたのが最初であり、その後、四十八夜が念仏供養に冠せられるようになった。文政一二年(一八二九)に造立された一千日念仏供養の塔は、嘉永三年(一八五〇)と明治三年(一八八〇)に同種のものが造立され、この塔は四十八夜念仏供養塔と併立するが、夜念仏が四十八夜念仏と移ったように、新しい形で念仏供養がなされたと考えてよく、その意味から藤上の念仏供養塔は三つに大別することができる。
Ⅳ-62 夜念仏供養塔の年代別分布
寛延元年(一七四八)には、夜念仏供養と四十八夜供養の二塔の造立を見るが、この年以降は四十八夜念仏の供養塔ばかりとなる。四十八夜念仏の供養塔は年代による古さ新しさには関係なく、名称の使い方に一定のきまりはなく 混然と碑名が刻字されており、その名称は次の六種類となっている[供養塔数は判別可能なもののみ]。
① 四十八夜念仏供養塔 (一七四八-一八二〇) 五基
② 四十八夜供養塔 (一七五二-一八一九) 七基
③ 念仏四十八夜供養塔 (一七五七) 一基
④ 四十八夜念仏 (一七六二-一七六四) 二基
⑤ 四十八夜念仏供養 (一七六七-一八二九) 六基
⑥ 四十八夜供養 (一七七七-一八二一) 五基
元禄一六年(一七〇三)の差出帳に記載されている阿木村分川上の観音堂の境内には、三基の四十八夜念仏供養塔がある。裏面には造立の年月日、それに関係者数などが記されている。碑の文面の要約は
延享元年(一七四四)七月 川上村中木曽領三人
宝暦三年(一七五三)九月 両村三九人
宝暦四年(一七五四)八月 両村二二人
と、なっている。この両村とは「尾張領中津川宿村枝村川上」と「岩村領阿木村枝村川上」のことであり、木曽領とは木曽福島を本処とする中津川宿村の地頭山村氏の知行所である。この四十八夜念仏供養塔は、碑の文面や造立場所でも分かるように、阿木村川上にあり、支配者が違うものの日常生活の利害が共通する集落である中津川村分川上には造立はない。
これらの塔は、岩村領の阿木村、飯沼村を中心とする地域に多く建立されているが、現在の恵那市を構成する中山道沿いの地域には、阿木地区と時代を同じくする四十八夜念仏供養塔はない。他の苗木領についてみると、日比野、上地、瀬戸の三か村には、四十八夜念仏供養塔は確認されていない。同じ苗木領の坂下村外洞[恵那郡]などでは、四十八夜を冠した石塔群がある。尾張領大井村岡瀬沢には、享和年間の八十八夜供養塔と四十八夜供養塔四基が確認されているが、藤上の石塔群のような継続性はなく、その関連は薄いと考えられる。藤上の森や飯沼の明(みょう)が田、大根木の長楽寺などにある四十八夜念仏供養塔は、恵那郡南部的文化の色彩がきわめて濃い。一般に「恵那の文化」と包括して言われがちであるが、隣接する村々とのかかわりで生活文化は変化していくものである。また、四十八夜念仏供養塔の造立を見ない地域でも四十八夜念仏供養は一般的に行われており、これらの地域と供養塔との関係や、その発祥地と造立地域の範囲はまだ調査の段階である。