徳本行者の念仏教化

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「南無阿弥陀仏」と独特の文字で書かれ無限の天空を形どったと言われる花押で知られる名号石(徳本碑)は、生き仏と言われた徳本行者が教化のため足跡を印した地に残されている。未調査の地域もあるが、県内の名号石の分布は越中・加賀・越後の教化の道筋となった中津川宿周辺の村々と飛驒の高山以北の地に集中している。
 文化一三年(一八一六)三月の末に武蔵国より教化を始めた徳本行者の一行は、上野国 信濃国を巡り八月一一日に木曽峠[大平峠]を越した。中津川宿大泉寺[浄土宗]では人足五〇人と馬四頭、それに駕籠五挺を木曽峠まで、檀徒の代表をこの日の宿泊地の広瀬[南木曽町広瀬]まで出迎えのため差し向けている。落合宿高福寺[浄土宗]も五人の人足を広瀬まで送っている。
 八月一三日、この日、一行は妻籠宿本陣にて小休(こやす)み。一石栃(いちこくとち)での御斎(おとき)[仏家の食事]は高福寺が仕出しをしており、馬籠宿本陣、落合宿はずれの医王寺[浄土宗]での小休みなど、信者や寺方の出迎えと歓待を受けながら、この日の八つ時[午後二時]に大泉寺に到着している。
 翌一四日の小休みを日比野村[中津川市苗木]の鉄三郎が、朝の御斉供養を福岡村[恵那郡福岡町]善右衛門・安兵衛の両名が、苗木遠山家は中津川から日比野村までの道案内のため足軽一人を付けることを申し出ている。この様にして徳本行者の一行は、各地の寺方や信奉者らの手厚い歓迎を受け、止宿または停留した宿や村々で念仏教化を行ったのである。
 中津川宿では大泉寺において念仏講中一八組に、大幅名号四枚、中幅名号五枚、中△[△の意味不明]九枚。個人には、六万遍[直筆名号]七人、一万遍以上[中幅名号と珠数]二〇人、千遍以上[小幅名号]二一四人。他に小幅名号二八七〇枚、病人に小幅名号三八枚を授けている。
徳本行者の称名念仏勤化は、徳本行者の授ける念仏を
「……人々キコン限受テ 今日ヨリ命終ル迄 退転ナク申スヲ日課ト云ウナリ」
 と、毎日念仏を唱えることを誓約することにより、日課名号を一〇〇遍より九〇〇遍まで勤めると「拝復名号」を、千遍より九千遍までは帳面に名を付け「小幅名号」と日課の回数により名号を授与している。授与する枚数が多く、日課を六万遍とする者に授与する真筆名号以外は板刷りであったと考えられる。
 日課の回数により分け与えられた名号の大きさは、大幅名号、中幅名号などと区別されているが、念仏講中二〇人から三〇人には唐紙六ツ切り、五〇人以上は唐紙四ツ切り、一〇〇人以上は唐紙半分の名号と基準が決められている。名号石の大きさを計測すれば、その念仏講の構成人員を知ることが可能である(戸松啓真編・徳本行者全集山喜房)。