名号石の分布と念仏講

812 ~ 813 / 922ページ
中津川市とその周辺地域にはかなりの数の名号石が存在するが、旧中山道沿いの馬籠宿[木曽郡山口村]と大井宿[恵那市大井町]までの範囲に限定すると一一基が確認できる。これらは造立年代不詳の大井宿の一基を除くと、文化一四年(一八一七)から文政七年(一八二四)までの八年間に造られたものばかりである。その造立は、徳本行者が来訪しその余韻の残っている文化一四年(一八一七)に四基、文政一年(一八一八)に二基と半数の六基が造られた時期と、授けられた名号を永久に残すため一年に一基ずつ石が刻まれた文政四年(一八二一)から同七年(一八二四)までの二つに分けることができる(Ⅳ-64表参照)。文化一四年(一八一七)造立の大泉寺・高福寺・医王寺の名号石は徳本行者に造立を願い出て認められたもので、この様な経過で造立された名号石には、飛驒・高山大雄寺[浄土宗]の高さ約四m、幅約一mの巨大な名号石や、同じく高山の万人講をつくり桐生(きりゅう)川原で処刑された人々の供養をするため造立された名号石など、合せて六基が県内にあるが、これらは文化一四年(一八一七)までに造立されたものである。

Ⅳ-63 大泉寺の徳本名号石


Ⅳ-64 中津川市とその周辺の徳本名号石

 中津川市内と周辺地域で見られる名号石は、「講」が主体となって造立したものが大半である。名号石を造立した「講」は名号を授与され、徳本行者とのかかわりを深め徳本行者教化の念仏講となるわけであるが、「徳本講」を名乗らず、それぞれの講名や講中と書いている。この点から察すると新しい講を組織したのではなく、既成の講が名号を授けられたのであろう。
 念仏講は徳本行者の教化の様に浄土教系のものと関係が深いが、千旦林の旭では観音講連中が造立した名号石がある。これは念仏が講や既存の宗教と無関係に唱えられ、造立した碑に自講名を刻むあたりは、念仏講であっても浄土教系との関係を深く持っていなかったことを意味している。それに文政七年(一八二四)以降の名号石がないのも、徳本行者の影響が来訪後の年数の経過により薄れたためであろう。また、藤上の石塔群を除き四十八夜念仏と明記されたものが一時期に集中し、その後の造立を見ないのも同じ要素があると思われる。